私たちは、「白梅の塔」に向かいました。「白梅の塔」は、「しらゆりの塔」から車で約15分程の奥まった場所にひっそりとありました。沢山の人たちが訪れる「しらゆりの塔」に比べると、「白梅の塔」は観光で沖縄に来られる人々には殆ど知られていないような戦争跡地でした。

私は、沖縄に来る前の日の夜、大きな白い双葉のようなシンボルが出て来た夢を見ました。地面に白い双葉の影が現れたのです。一つは「ひめゆりの塔」とすぐに分かりました。もう一つは何だろうとネットで調べてみると「白梅の塔」と分かったのです。
「白梅の塔」について記述しているサイトを覗いた途端、写真や文章を通じて、犠牲になられた人々の思いが伝わって来て、胸がいっぱいになりました。ここも訪れるべき場所だと感じました。どちらも「白」という字がつくので、シンボルが白い双葉なのかと思いました。
車を駐車場に停めて、私たちは、道路と反対側の「白梅の塔」の敷地に入りました。私たち以外に誰も居ませんでした。10メートル程の先に慰霊碑がありました。私はすぐに鳥肌が立ちました。慰霊碑には「白梅之塔」の由緒が次のように記されていました。
「沖縄県立高等女学校の四年生五十六人で編成された白梅学徒看護隊は、昭和二十年三月六日第二十四師団(山部隊)の衛生看護教育隊に入隊し、補助看護婦としての特別集中教育を受けていた。
米軍の艦砲射撃が激しくなった同月二十四日から東風平町富盛の八重瀬岳にあった同師団の第一野戦病院の軍属として配置され、昼夜別なく傷病兵の看護に専念した。戦況は日毎に悪化し、同年六月四日遂に白梅隊に解散命令が下り、隊員は散り散りになって戦野を彷徨い、一人またひとりと戦火に塗れていった。その場所は殆ど不明である。
また、解散後この地に後退した山第一野戦病院に、再び合流した一部の白梅隊員は、同年六月二十一、二十二日の両日に亘り、米軍の猛攻撃を受け無念の最期を遂げた。この辺一帯は、白梅隊員の最も多くの犠牲者が出た所である。
塔は、戦没した白梅隊員及び沖縄戦で戦死、或いは戦争が原因で亡くなった教職員・同窓生百四十九柱の鎮魂と世界の恒久平和を祈念して、昭和二十二年一月に建立した。毎年六月二十三日の「慰霊の日」に例祭が行われる。」
慰霊塔の下には平和祈願した修学旅行生たちの色紙と花束が添えられていました。白梅之塔の右側、参道から少し離れた林の中には、白梅学徒看護隊自決之壕の碑があり、右手奥にある南禅広寺の側に自決の壕がありました。少女たちがどんな思いで自らの命を絶ったのか、この上ない困難で辛い状況は想像に難くありません。
私たちは、「白梅の塔」の前で光の柱を立てるためにお祈りをしました。しばらくすると、伴侶が「精霊たちが天に向かって光の道をつくってくれている」と言いました。北海道神宮から彼女に入ってついて来た羊蹄山の精霊たちが癒しの働きをしてくれたのです。
そして、伴侶の中の太陽の龍神と月の龍神が放たれて、塔の上で光を照らしてくれていました。彷徨える魂たちが一人ずつ光の道を昇って行きました。「あの石の陰に一人いるみたい」と伴侶が言いました。怖いためなのか、みんなと一緒に天に昇るのを躊躇しているようでした。
彼女は小さな天使たちに頼みました。躊躇している人を連れてきてもらい、光の道に昇るのを手伝ってもらいました。私たちは、沖縄戦で犠牲になり、とても辛い、悲しい思いで、この地で彷徨っている方たちが光のもとに還るようお祈りを続けました。
「しらゆりの塔」に比べ、「白梅の塔」は圧倒的に訪れる人の数が少ないと思います。人が訪れて祈ることは光で照らすこと。沖縄の地には、ひっそりと残されている戦争跡地が数多くあります。沖縄を訪れる人たちが一人でも多く、慰霊の地を訪れ、祈りと感謝の灯りを照らすことを願っています。


