9月18日(水)の最後の訪問場所である首里城に向かいました。目的地は首里城そのものではなく、首里城公園内にある沖縄戦の司令部の跡でした。私はこれまで2回、首里城を訪問しましたが、首里城公園内に沖縄戦跡地に訪れるのは初めてでした。

白梅の塔から車で40分程で首里城に到着しました。駐車場に車を停めて、私たちは首里城内の案内板を探してみましたが、目的地である第32軍司令部壕跡は見つかりませんでした。首里城内のインフォーメーションの女性の方に、その場所を尋ねました。
首里城公園の地図を渡され、第32軍司令部壕跡の場所にマーカーで丸印でつけて教えてもらいました。首里城公園の全体地図にも第32軍司令部壕跡は明記されていませんでした。首里城全体の大きさは、東西約400メートル、南北約200メートル、面積約5haほどあり、標高約120〜130メートルの小高い丘の上に立地しています。
第32軍司令部壕跡は、首里城公園のインフォメーション・センターである首里社館(すいむいかん)から北に向かう道を約200m行った所を左に曲がった所にありました。その先には、左手に人工池の龍潭(りゅうたん)、右手に弁財天堂と円鑑池(えんかんち)があります。
大日本帝国第32軍(沖縄守備軍)は、日本の敗戦が濃厚となった第2次世界大戦末期の1944(昭和19年)年3月15日に編成され、沖縄の守備を担う陸軍部隊でした。沖縄本島に司令部を置き奄美群島から先島諸島をその守備範囲として連合国軍の上陸に備えました。
司令部は沖縄決戦に備え、首里城の地下一帯にコンクリートで固めた大規模な地下壕を構築しました。連合国軍から世界的文化遺産の首里城は攻撃しにくいという意図があって、首里城の地下壕に司令部が置かれたと言われています。
地下壕は、守礼門、園比屋武御嶽石門付近から金城町方向に延び、その規模は南北400メートル、総延長は1キロ超える。壕構築は1944年12月上旬に開始、沖縄師範学校男子部の学生らが動員されました。6カ所の入口があり、1トン爆弾にも耐えられるという堅牢なものでありました。
1944年1月第32軍司令部は首里城の壕に移されました。同年4月1日連合軍が沖縄本島に上陸。司令部は、第62師団を配置し、戦略持久を展開、首里の北東嘉数〜前田を主陣地第一線として血みどろの戦いを挑みました。5月4日、軍は作戦を変更して米軍に総攻撃を敢行したましたが、惨憺たる結果をもたらしました。
米軍の猛攻撃を受けて首里が陥落した同月22日、司令部は壕を放棄、本島南部の摩文仁に撤退。軍民が混在する地上戦が南部で展開、犠牲者の増大を招く結果になりました。 6月23日未明、牛島満軍司令官と長勇参謀長が自決し、軍としての組織的行動を終焉したのです。
第32軍司令部壕内は5つの坑道で結ばれていましたが、現在、坑道は塞がれ、中に入ることはできません。第32軍司令部壕跡は、横穴式住居の入り口に鉄の柵が取り付けられたような感じになっていました。第32軍司令部壕跡の前には説明板があり、次のように記されていました。
「第32軍司令部壕内のようす:司令部壕内には、牛島満軍司令官、長勇参謀長をはじめ総勢1000人余の将兵や県出身の軍属・学徒、女性軍属などが雑居していました。戦闘指揮に必要な施設・設備が完備され、通路の両側には兵隊の二、三段ベッドが並べられました。壕生活は立ち込める熱気と、湿気や異様な臭いとの戦いでもありました。
第32軍司令部の南部撤退:1945年5月22日、日本軍司令部は、沖縄島南部の摩文仁への撤退を決定しました。本土決戦を遅らせるための、沖縄を「捨て石」にした持久作戦をとるためでした。5月27日夜、本格的な撤退が始まり、司令部壕の主要部分と坑口は破壊されました。
司令部の撤退にともなう、軍民混在の逃避行のなかで、多くの将兵と住民が命を落とすことになってしまいました。5月31日首里は米軍に占領されましたが、沖縄戦によって、首里城正殿をはじめとする琉球王国の歴史を物語る貴重な文化遺産は失われてしまいました。」
説明板の内容を読んだ後、「太陽の龍神と月の龍神が出て壕に入って行った」と伴侶が話しました。鉄柵で塞がれている壕の入口ではなく、上方の空気穴と思われる所から龍神たちは入って行ったといいます。入念にプロテクションをした私たちは、鉄柵のある入口の方に歩いて行きました。
私は既に全身に鳥肌が立っていて、かなり強いネガティブなエネルギーを感じていました。数歩進んだ時に、「もう、これ以上は行けない」と伴侶は言いました。私たちは、その場でお祈りをしました。沖縄戦の第32軍司令部の場所で亡くなられた方々への慰霊と感謝の思いを捧げました。
そして、私は一人で鉄柵の入口の前まで進み、壕の中に光を入れるようにお祈りをしました。光が入らない程、闇が深い場所となっていました。伴侶が歩道を挟んで反対側にある壕の空気穴を指さし、私はそこに移動しました。そこの場所で光の祈りをしましたが、やはり同じでした。
第32軍司令部壕内は、得体の知らないような闇の状態になっている感じでした。鎌倉の元龍口明神社の刑場跡地のように、人間の力では対処できない深い闇になっていました。太陽の龍神と月の龍神は壕内に光を入れる浄化を終えて伴侶の体に戻って来ました。
私たちは首里社館に戻り、お茶しながら休憩を取りました。私は体の異変を感じていました。首の後ろ辺りに違和感がありました。伴侶に観てもらうと、「闇が私のプロテクションシールドをこじ開けようとしている」と話しました。鉄柵の入口から光を入れようとしたので、闇の存在が攻撃してきたのです。
彼らにとっては光を入れることは攻撃されたことと同じようにとられるのだと思います。きちんとプロテクションしていたので、大きな影響はありませんでした。闇はあきらめて帰って行ったようでした。念のため、彼女にヒーリングしてもらいました。
首里城下の第32軍司令部壕跡がこれほどまでに闇が深いのは何故なのか分かりました。それは閉ざされた場所だからです。今回、浄化のために訪問した戦争跡地である平和祈念公園、ひめゆりの塔、白梅の塔は、いずれも広く公にされ、人々が慰霊のために訪れる場所となっています。
特に、ひめゆりの塔に関しては、多くの人々に対して、沖縄戦の実情を提供し、戦争は永久に不要であることを訴え、そこで犠牲になった方々の思いを共有できる慰霊の場所となっています。しかし、第32軍司令部壕跡は、その存在さえも知らない人たちが多いのです。
首里城公園の地図にも、案内板にも、第32軍司令部壕跡のことは記述されていません。説明板はあるにしても、積極的に知らしめることはされていないのです。首里城周辺の首里戦線は、沖縄戦の中でも多数の人たちが犠牲になった激戦地の一つでした。
琉球王朝の象徴であり、世界遺産でもある首里城には、毎日、多数の人々が訪れています。第32軍司令部壕跡の存在が日の目をみることのない状況下で、壕の中の過酷な環境の中で従軍し、無念の気持ちで命を落として行った、たくさんの戦没者の方々はその思いを晴らすことができるのでしょうか。
多くの先人たち、犠牲になった人たちのおかげで、私たちの今日の暮らしがあります。観光による経済効果よりも、人を誘致してお金を集めることよりも、もっと大切なものがあります。陽の光を手で遮ると陰が出来ます。隠された場所は闇が深くなります。
戦争跡地が閉ざされた場所であってはいけないのです。今回、第32軍司令部壕跡の浄化が完結したとは思いません。もっと光をあてる必要があります。第32軍司令部壕跡が開かれた場所になり、首里城を訪れる人々が祈りと感謝を捧げられる慰霊の地となることを切に願っています。


