2015年04月26日

鹿児島 冠嶽神社 〜巡礼の旅(198)〜

徐福(じょふく)展望公園にて冠嶽(かんむりだけ)全体に光を降ろして黒龍が解放され、冠嶽神社の坊主墓にて、留まっている魂たちを光に誘い、銭積石のある八重山にて光を降ろして闇を解除した、鹿児島巡礼の旅

1月22日(木)、可愛山稜(えのやまのみささぎ)での解除を終えて、冠嶽神社に向かいました。約1時間30分、ナビに従って車を走らせて行くと冠嶽神社を通り過ぎて、冠嶽(標高516m)の頂上に着きました。駐車場が整備された絶景の徐福展望公園でした。道路の両側には石仏や石碑が祀られており、冠嶽は霊場として山でした。

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徐福展望公園には、白色の大きな徐福像がありました。紀元200年頃、徐福をはじめとする男女三千人と職人の一団は、秦の始皇帝の命により、不老長寿の霊薬を探すために、この地にたどりついたと伝えられています。冠嶽の名の由来は、徐福が、この山に登り冠を捧げてその薬を求めたことによるといいます。

冠嶽は、東岳、中岳、西岳など複数の峰からなり、古代より神仏習合の歴史とともに、英彦山(ひこさん)との繋がりも語られる山岳信仰の霊山と伝えられます。車から降りて、徐福展望公園にある案内地図の所に移動しました。地図を観ながら冠嶽が開かれるよう意図して光を降ろしました。封印解除と光の存在の解放のため、2回に分けて光を降ろしました。

「黒龍が解放された」と伴侶が伝えて来ました。「大国主さんも来て喜んでいる。ここは大事な場所みたい」と彼女は言いました。徐福展望公園を後にして、山を下って、冠嶽神社に移動しました。冠嶽神社は、鹿児島県いちき串木野市冠嶽にある神社で、祭神は櫛御毛野命(クシミケヌノミコト)、大国主命、豊受大神(トヨウケノオオカミ)といいます。

冠嶽神社は、6世紀中頃、蘇我馬子が熊野三所権現を勧請創建したもので、冠嶽熊野三社と称して、藩主島津家代々尊崇の神社であったといいます。馬子宿祢は、当社の東隣の天台宗興隆寺の建立にも係わったとされ、のち霊山寺、頂峯院と変り、宗派も真言宗となったと伝えられます。

冠嶽山頂峯院は興隆寺として開山以来、明治2年の廃仏毀釈による廃寺まで続き、その後は冠嶽神社と称するようになったといいます。駐車場に車を停めて、境内を散策して行きました。社殿の前で、この地を開きに来た旨を伝えて、境内全体に光の柱を降ろしました。冠嶽神社の西側にある鎮国寺頂峯院大師堂に歩いて移動しました。

沢山の石塔や墓石が並ぶ坊主墓がありました。頂峯院の歴代の僧侶たちの墓のようでした。私は少し鳥肌が立っていました。「留まっている魂たちがいる」と伴侶が伝えて来ました。「お疲れ様でした。どうぞやすらかに天に昇ってください」と伝えて、光の柱を降ろしました。「みんな昇って行った」と伴侶が教えてくれました。

冠嶽神社での解除を終えて、八重山の銭積石に向かいました。約25分、車で移動して、現地の駐車場に到着しました。銭積石は、鹿児島県薩摩川内市入来町の八重山にあり、昔の銭のような円盤状の石が積み上げられている場所です。ネット情報からは何の目的で作られたものかは不明でした。車から降りて、登山口から八重山を登って行きました。

登山道の途中には、石積みの囲いの場所が3か所あり、砲台だと感じました。幕末・維新の西南戦争と関係あるのかもしれません。「島津藩と関係ありそう」と伴侶が伝えて来ました。30分かけて登りましたが、銭積石の場所にはたどり着けずに、八重山に光を降ろすことにしました。留まる御魂が光に還るよう意図して光の柱を降ろしました。

すると直ぐに、陽の光が入り、山全体が明るくなりました。やはり戦争の犠牲者の魂たちが留まり、山全体が暗くなっていて、魂たちが昇って明るくなったのです。八重山の銭積石は、戦争で亡くなった方たちを慰霊するために人間の手で作られたものだと感じました。「この山のカルマもある」と伴侶が伝えて来ました。

もしかすると、史実に残されてない出来事が隠されていたのかもしれません。光を広げるために、戦争や自然災害で地上に留まっている御魂をあげることは重要です。私たちは、八重山を後にして、宿泊先の宿への帰路につきました。

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posted by 地球の子 at 12:00| Comment(0) | 鹿児島県 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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