2015年07月29日

京都 松尾大社 〜巡礼の旅(230)〜

渡来系氏族の秦氏一族の首長クラスの人物の墓と推定される蛇塚(へびづか)古墳に光の柱を降ろして土地が解放され、古代から秦氏に奉斎されている松尾大社に光を降ろし、松尾山から黒龍が解き放たれた、京都巡礼の旅

7月4日(土)、木嶋坐天照御魂神社の解除を終え、蛇塚古墳に向かいました。約10分、車で移動してコインパーキングに駐車して、徒歩で現地を目指しました。蛇塚古墳は、京都市右京区太秦にある古墳で、京都府下でも最大の横穴式石室をもつ前方後円墳であるといいます。人に道を尋ねながら10分程歩いて蛇塚古墳に着きました。

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蛇塚古墳は住宅地の真中にある古墳でした。元々蛇塚古墳は、長さは約75メートルある前方後円墳だったと推定されています。奈良明日香村の石舞台古墳に匹敵する大きさだそうです。現在はフェンスに囲われた石室の古墳になっていました。石室の周囲はフェンスで囲われて施錠され、普段は出入りできないようになっていました。

蛇塚古墳は、古墳時代後期の6世紀末から7世紀頃の築造とされ、現存する京都府の前方後円墳としては最後期に属するといいます。被葬者は不明ですが、秦氏一族の首長クラスの人物ではないかと考えられています。蛇塚古墳を観察するために、フェンスの周りを一周しました。今は古墳だった場所が住宅地になっていました。

蛇塚古墳の前で、解除の宣言をして、光の柱を降ろしました。「京都にあちこち光を降ろしてきましたが、だいぶ古い時代になってきましたと女の人が伝えて来た」と伴侶が教えてくれました。「ここは昔、日本の神様の居場所だったみたい」と彼女は言いました。古墳は故人の墓ですが、神社や寺院と同様に土地を封じる役目をしていると分かっています。

土地を開く過程は、新しい時代から古い時代に向かって生きます。玉ねぎの皮を剥くように外側にある新しい時代の封印から解除していくことになります。蛇塚古墳の解除を終えて、松尾大社に向かいました。松尾大社は、京都市西京区嵐山宮町にある神社で、祭神は大山咋神(おおやまぐいのかみ)、中津島姫命 (なかつしまひめのみこと:市杵島姫命)といいます。

松尾大社は、京都市西部、四条通西端に位置し、東端の八坂神社(祇園社)と対峙して鎮座します。元来は松尾山(標高223m)に残る磐座での祭祀に始まるとされ、701年に文武天皇の勅命を賜わった秦忌寸都理(はたのいみきとり)が勧請して社殿を設けたとされます。松尾大社は、古代から渡来系氏族の秦氏に奉斎されています。

約15分、車で走って現地の駐車場に着きました。車を降りて、境内を注意深く観察しながら散策して行きました。社殿が松尾山を背にしていることから、磐座で祭祀が行われてきた御神体である松尾山を封じていると感じました。社殿の前にて、この地を開きに来た旨を伝え、社殿左側の境内社の所に移動しました。

松尾山と松尾神社全体が開かれるよう意図して光を降ろしました。「山が開かれて、黒龍が出てきた」と伴侶が伝えて来ました。解放された黒龍は、笛吹神社の山から解放された白龍とペアの黒龍だといいます。松尾神社の解除を終了して、渡来人の代表的存在である秦氏ゆかりの神社、寺院を回る巡礼の旅を終えました。

秦氏を代表とする渡来人たちの目的は日本の光を封印することでした。シュメールを起源として、養蚕、陶業、土木などの技術を持ち込み、物質的豊かさを日本にもたらし、闇の時代を構築して行ったのです。秦氏の闇の役割は終わり、光の幕開けが来ています。京都の地が開かれて、光の拠点となるよう祈りながら、私たちは帰路につきました。

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posted by 地球の子 at 12:34| 京都府 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする