2015年7月28日(火)、御皇城山皇祖皇太神宮の遠隔での解除を行うことにしました。御皇城山皇祖皇太神宮は、富山県富山市金屋の呉羽山(標高80m)にある神社です。呉羽山の東山麓にあり、呉羽山の山道を10分ほど行くと鳥居があり、小さな本殿が現れるといいます。

皇祖皇太神宮の祭神は、天地身一大神(アメツチマヒトツノオオカミ)、元無極體主王大御神(モトフミクライミヌシオオカミ)、天国竈大神(テンゴクカマドノオオカミ)、皇祖皇太神(スメオヤスメラオオタマシイオオカミ)、別祖大神(トコオヤオオタマシイオオカミ)、神国御廟命大神(シンコクミタマミコトノオオカミ)、神明三十日明大神(カミアカリミソヒマモリオオカミ)、日月人風光主大神(ヒツキホオヒノオオカミ)といいます。
御皇城山皇祖皇太神宮の現在の本宮は、茨城県の皇祖皇太神宮にあります。御皇城山皇祖皇太神宮は、竹内文書(たけうちもんじょ)を教典とする天津教(天神人祖一神宮)の聖地とされます。竹内文書とは、神代文字で記された文書と写本群などから成ります。
写本群とは、神代文字で記された文書を武烈天皇の勅命により武内宿禰(たけしうちのすくね)の孫の平群真鳥(へぐりのまとり)が漢字とカタカナ交じり文に訳したとするものです。竹内文書は、神代文字で記された文書と写本群と文字の刻まれた石、鉄剣なども含めた一連の総称です。
竹内文書は、いわゆる古史古伝の書物で、天津教の聖典です。原本は後述の裁判に提出されたましたが、後に焼失したとされ、一般には研究家らからは偽書とされているといいます。竹内文書では、神武天皇から始まる現在の皇朝を「神倭朝(かむやまとちょう)」と呼びます。
竹内文書では、これ以前に「上古25代」(または「皇統25代」)とそれに続く「不合朝(あえずちょう)73代」(73代目は神武天皇のことです)がありるとされます。そして、さらにそれ以前に「天神7代」があったとされます。まず、航空写真地図で御皇城山皇祖皇太神宮を確認して、光を降ろしました。
「光が入ったと思う」と伴侶が伝えて来ました。次に、ネットで御皇城山皇祖皇太神宮の境内の画像を見て行きました。「天津護法守 大天空神」と記された洞窟の祠が気になりました。画像を見て、その洞窟の祠に光を降ろしました。「光が入ってアヌンナキが撤退した」と伴侶が教えてくれました。
どうやら、アヌンナキは洞窟の祠に封じられていたようでした。人間のエゴのエネルギーで封印されていた感じです。当初は、闇の役割としてアヌンナキがサポートしていたのでしょう。御皇城山皇祖皇太神宮の関係から、富山県五箇山の「天柱石」の画像があり、気になりました。
天柱石は、富山県南砺市(なんとし)上松尾の五箇山にある立石です。第三紀層の基底礫岩で、下部の洞穴にはコウモリが生息するといいます。 天柱石は、この地方の名勝とされ、また神聖な場所と考えられていました。江戸時代に、天に向かってそそり立つ石として「天柱石」の名前が付けられたといいます。
画像を見て、天柱石に光を降ろしました。「光が出たよ。大事な光」と伴侶が伝えて来ました。天柱石は封印されたポータルであり、開かれたことで光が放たれたのでした。今回、富山県の地の封印解除は初めて行うものでした。富山の地が開かれて、光が広がって行くことを願っています。
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