2016年08月13日

福岡 小倉城 〜巡礼の旅(309)〜

「小倉城の西側の馬頭観音の石碑、地蔵、僧侶像がある場所に光を降ろすと、闇のエネルギー体が昇天して行った。八坂神社の神楽殿の前に闇の岩があり、隣の水神社と稲荷神社とともに光を降ろすと白龍が解放された。陸軍の門を含め小倉城全体に光を降ろすと、集まって来た軍人の魂たちが光に還った。」

2015年10月20日(火)、福岡県北九州市小倉北区にある小倉城に解除のために訪れました。当日は、JR小倉駅から15分程歩いて小倉城に着きました。小倉城は、最初の築城年代は明らかではありませんが、文永年間(1264年-1274年)に緒方大膳亮帷重が居城したと伝えられています。

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勝山城、勝野城、指月城、湧金城、鯉ノ城などの別名があります。小倉城は13世紀中ごろ、紫川河口西岸にあった丘に築かれたといわれ、近世の江戸時代前後に毛利勝信が現在見られるような縄張で総石垣造の城郭を築き、細川忠興が南蛮造の天守などを建てたといいます。

小倉城の周辺を散策して行くと、小倉城の西側の八坂神社と隣接する場所に、馬頭観音の石碑、地蔵、僧侶像がありました。「ここはかなりネガティブ」と伴侶が伝えて来ました。私も鳥肌が立っていて、闇のエネルギーを感じていました。僧侶像の前で、「この地を開きに来ました」と伝えました。

「ほほう・・と言っている」と伴侶が教えてくれました。「どうぞ、ここにいる皆さんと一緒に光に還ってください」と伝えながら光を降ろしました。「みんな昇天して行った」と伴侶が伝えて来ました。そして、周りが明るくなって太陽の陽が射して来ました。

次に、奥にある八坂神社に歩いて来ました。小倉城の八坂神社は、もともと「祇園社」と呼ばれていましたが、1868年(慶応4年)の神仏分離令(廃仏毀釈運動)により、「八坂神社」に改められました。小倉城の八坂神社の祭神は北殿と南殿に分かれて祀られています。

北殿の祭神は、櫛名田比売命、須佐能袁命(スサノオ)、天之菩卑命(アメノホヒ)、天之忍穂耳命(アメノホシホミミ)、天津日子根命(アマツヒコネ)、活津日子根命(イクツヒコネ)、熊野久須比命(クマノクスビ)、市寸島比売命、多紀理比売命、多岐津比売命といいます。

南殿の祭神は、大名牟遅命(オオナムヂ:大国主命)、少比古那命(スクナヒコ)、須佐之男命、櫛名田比売命といいます。八坂神社の境内を散策していくと、拝殿の左奥の神楽殿の前に、闇の岩と思われる岩が祀られていました。小さな穴が空いている黒い岩の甌穴岩です。

闇の岩が開かれるよう意図して光を降ろしました。その隣には、水神社と稲荷神社がありまいた。ここに龍神が封じられていると感じました。水神社と稲荷神社に光を降ろすと、「白龍が解放された」と伴侶が教えてくれました。水神社と稲荷神社の先に門がありました。

「あそこがネガティブな場所」と伴侶が指を差しながら伝えて来ました。比較的、人が行き来する場所でしたので、人の往来が途切れる時を見計らって光を降ろしました。「亡くなった武将たちの魂が石垣から出て来て、昇天して行った」と伴侶が教えてくれました。

八坂神社から小倉城本丸の方に移動しました。境内の奥の方には、戦時中の陸軍の門が残っていて、「とても暗い場所」と伴侶がが指摘して来ました。1875年(明治8年)、陸軍の歩兵第14連隊と歩兵第14連隊を管轄する歩兵第12旅団本部が松の丸跡に置かれたといいます。

また、1898年(明治31年)、陸軍第12師団司令部庁舎が本丸跡に建てられたとされます。私は、陸軍の門を含めて小倉城全体を意図して光を降ろしました。「空からも軍人さんたちの魂が集まってきて、光の柱とともに昇って行っている」と伴侶が伝えて来ました。

城は、神社、寺院と同様に土地を封じる役目をしています。光のポイントやエネルギーラインにある場所に城は建てられていることが多いです。神社仏閣に光を降ろすことで、その地が開かれて行きます。小倉城の地が本来の姿になって光が広がって行くことを願っています。

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posted by 地球の子 at 23:39| 福岡県 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする