国産み神話の残る姫島(ひめしま)と周防大島(すおうおおしま)に光を降ろして、母親のような女神と連れの鳥が解放された後、小豆島や淡路島などの瀬戸内海の島々を解除して行きました。そして、一週間後の4月15日(金)、私は右目の奥に痛みを覚えました。

右目の奥の痛みの心当たりは、脊振山(せふりさん)かもしれないと感じました。ブログの検索エンジンの検索語に「脊振山 封印」というワードがあり、気になって脊振山についてネットで調べていました。熊本地震の最初の大きな揺れの地震があった翌日のことでした。
脊振山は、福岡県福岡市早良区と佐賀県神埼市との境に位置する標高1,055m、脊振山系最高峰の山です。脊振山は、七福神の弁財天を乗せて天竺から飛んできた龍が脊振山の上まで来て天に向かって三度いななき、背中のギザギザした背びれを打ち振ったから「脊振山」と名付けられたといいます。
脊振山山頂には、航空自衛隊、アメリカ軍のレーダーサイト(脊振山分屯基地)があります。また、脊振山頂には脊振神社の上宮(じょうぐう)があり、石の祠になっています。脊振山頂の上宮の神殿には、弁財天と市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)が御神体として祀られています。
御穀豊穣の神として肥前、筑前の農民に信仰され、現在も参拝者が絶えないそうです。脊振山は、福岡の英彦山(ひこさん)、大分の六郷満山(ろくごうまんざん)と並ぶ、九州の山岳仏教文化の聖地とされます。脊振山系一帯は、古くは霊山として多くの修行僧が暮らす山岳密教の修験場でありました。
脊振山は、江戸期までは山系一帯にある坊(僧侶の住居)の総称とされ、現在の脊振山山頂は「上宮獄」と呼ばれていたといいます。隣山である千石山の中腹(佐賀県側)に今も残る霊仙寺跡(吉野ヶ里町文化財)は脊振山中宮に当時あった中心的な坊の一つだとされます。
霊仙寺は平安時代から鎌倉時代には脊振千坊といわれ天台密教の拠点として栄え、山腹一帯に堂宇が建ち並ぶ所でした。霊仙寺跡付近は、栄西が中国よりお茶の種を持ち帰り日本で初めて栽培した、日本の茶の栽培の発祥地とされます。大陸から渡ったお茶は闇のツールだったかもしれません。
お茶は、戦国の世の武将や大名たちの間で広まってステイタスを得た、日本を暗闇にする闇の役割を担ったものだと感じます。私は、この霊仙寺跡が気になりました。霊仙寺跡の画像を見て、遠隔で光を降ろしました。「いいです。光が入りました」と伴侶が伝えて来ました。
次に、脊振山に移りました。航空写真地図から脊振山を確認して光を降ろしました。「女神様が出て来た。手に指揮者みたいな棒を持っている女神様」と伴侶が伝えて来ました。解放された女神は、指揮棒を持った女神だといいます。指揮棒とはどういう意味があるのでしょうか。
指揮者は、楽器を演奏する人たちや合唱する人たちをまとめる役です。脊振山から解放された指揮棒を持つ女神はまとめ役の女神だと感じます。その日の明け方、伴侶は指揮棒を持った女神と同様なビジョンを見たと話していました。「脊振山」の名前から「背骨が振う山」という風に感じます。
日本の背骨が振うことと何か関係あるのかもしれません。姫島から解放された鳥を連れた女神、脊振山から解放された指揮棒を持った女神は、いずれも、アイテムを持っています。九州の地から二人の女神が解き放たれた後、東北の地から女神が解放されることになったのです。
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