2017年04月01日

鹿児島 隼人塚 〜巡礼の旅(367)〜

「隼人塚に光を降ろすと日本武尊のモデルだった熊襲の神が解放された。隼人の反乱の姫木城跡に光を降ろすと、沢山の御魂が上がって行った。隼人の人たちは、ヤマト王権の仲間割れの策略でヤマト王権側についた。裏切る形となった熊襲の人たちに許しを得て、カルマの闇は解消した。」

2016年9月30日(金)、突然、右足の親指付け根辺りに激しい痛みを覚えました。自分の体を日本列島に当てはめると、大隅半島の先端か、離島かもしれないと感じました。渡来人の御魂を光に導いた際、伴侶はネットで調べている時に「隼人(はやと)のことを目にしていた」と伝えて来ました。

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右足の激しい痛みは、大隅半島の渡来人か、隼人の御魂をあげる必要があるというサインだと感じました。隼人とは、大和の政権に反抗した、古代日本の薩摩、大隅、日向(鹿児島県、宮崎県)に居住した人々で、やがてヤマト王権の支配下に組み込まれ、律令制に基づく官職についた人々を指します。

薩摩、大隅、日向の地域には、「熊襲」と呼ばれる先住民の「やまとびと」が暮らしていました。「隼人」は、ある意味で、渡来人たちが作った、ヤマト王権側に取り込まれた「熊襲」の人たちでもありました。「大隅半島の渡来人」と「隼人」をキーワードとしてネット検索して行きました。

最初に、「大伴旅人(たびと)」に行き着きました。大伴旅人は、飛鳥時代から奈良時代にかけての貴族、歌人ですが、征隼人持節大将軍に任命され、隼人の乱の鎮圧にあたった人でもありました。隼人の反乱は、720年(養老4年)九州南部に住む隼人がヤマト王権に対して起こした反乱です。

1年半近くに及ぶ戦いは隼人側の敗北で終結し、ヤマト王権の九州南部における支配が確立しました。大伴旅人は、隼人の乱の鎮圧にあたったヤマト王権側の指揮官でした。大伴旅人の絵を観て、御魂があがるよう意図して光を降ろしました。この時は、「分からない」と伴侶が伝えて来ました。

次に、隼人に移りました。隼人の乱の現場となった場所を調べると、姫木城(ひめきじょう)跡が出て来ました。姫木城は、鹿児島県霧島市の国分平野北部にあった標高169mの山にある山城です。沢山の人たちが亡くなった場所であり、御魂があがるよう意図して姫木城跡に光を降ろしました。

「死んだ人がいっぱいいた。みんな昇って行った」と伴侶が教えてくれました。次に、隼人塚(はやとづか)に移りました。隼人塚は鹿児島県霧島市隼人町内山田にある仏教遺跡です。画像を見ると、高さ2m程の丘の上に五重石塔が3基が立っており、その周りに武人石像が4体が立っていました。

隼人塚は、熊襲の祟り鎮めのため作ったという説や隼人の反乱における死者の慰霊のために作ったという説があります。画像を観て、隼人塚に光を降ろしました。「熊襲が信じていた神を封じた。それを隼人の墓としている」と伴侶が伝えて来ました。熊襲の神を封印して、隼人の墓としているようでした。

結界となっている4体の武人石像に光を降ろすと、「OKです」と伴侶が伝えて来ました。次に、封じられた熊襲の神が解放されるよう意図して光を降ろしました。「毛が濃い仁王様みたいな大きな神様が出て来た。この神様が日本武尊(やまたけるのみこと)のモデルになって作られた」と伴侶が教えてくれました。

解放された神は、日本武尊のモデルでした。渡来人は、本物の神を封印するために、それをモデルとして違う名前を付けた人物を作って、上塗りするやり方をして来たのです。この上塗りの方法が、真実を隠すために、一番効果的な封印だと感じます。次に、百体神社に移りました。

百体神社は、大分県宇佐市にある神社です。隼人の乱の鎮圧後、厄病が流行ったために、隼人の慰霊のために作られたといいます。凶首塚と化粧井戸が気になり、光を降ろしました。そして、百体神社全体にも光を降ろしました。「光が入りました」と伴侶が伝えて来ました。

突然、伴侶が隼人の人たちの思いを伝えて来ました。「隼人の人たちの気持ちを分かって欲しいと思って、あなたの足に痛みが来た。渡来人だけではなく、やまとびとの中にも浮かばれない魂がいることを知って欲しい」。私は、「隼人の人たちの思いは分かりました」と伝えました。

そして、隼人の人たちの御魂が光に還るよう意図して光を降ろしました。「熊襲の人たちの許しを請いたい。仲を取り持ってほしいと言っている」と伴侶が伝えて来ました。「分かりました。あなたがたの気持ちを熊襲の長に伝えます」と私は言って、熊襲の穴の所にいる長にその旨を伝えました。

熊襲の穴は、巡礼の旅の際に訪れて、熊襲の長と対話した場所でした。「隼人の人たちが熊襲の人たちとの仲を取り戻したいと言っています。どうか隼人の人たちの気持ちを汲みとってあげてください」と言って、光を降ろしました。「調和がとれた感じになった」と伴侶が教えてくれました。

隼人の人たちは、ヤマト王権により仲間割れさせるような策略もあり、結果的に、熊襲の人たちを裏切った形になったのです。隼人の人たちは、熊襲の人たちと仲違いして、ずっと罪悪感に苛まれていたと感じます。再度、大伴旅人の御魂があがるよう意図して光を降ろしました。

「元々歌人だったから嫌だったと言って、昇って行った」と伴侶が伝えて来ました。今回の光のワークは、隼人と熊襲と渡来人のカルマの解消のためだったと思います。戦いで亡くなった人たちの魂が光に還って、九州南部の地が開かれ、光が広がって行くことを願っています。

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posted by 地球の子 at 23:34| 鹿児島県 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする