2020年05月21日

長崎 キリスト教の闇が深くなった島原の乱 〜巡礼の旅(536)〜

「島原の乱は、キリスト教徒の一揆と幕府の弾圧という姿だが、封印の役割のキリスト教の変化だった。現実的には、日本の貿易国がポルトガルからオランダに変わった。日本を主導するキリスト教が軽い闇のカトリックから重い闇のプロテスタントに移行した。」

蕎麦屋に行って体調が悪くなった伴侶に光を降ろした日の翌日、札幌市内に買い物に出かけました。道を歩いていると「はらいそ」という名前の飲食店が目につきました。「はらいそ」というのは、どこかで聞いたことがある言葉ですが、思い出せませんでした。

514px-OeCatholicChurch[1].jpg

帰宅後にネット検索してみるとポルトガル語の言葉でした。ハライソ(パライゾ)【paraiso】:キリシタン用語で「天国」「楽園」「パラダイス」の意味とありました。音楽グループの曲名、映画のタイトル、お店の名前などに使われていました。何故「ポルトガル」なのか、この時は分かりませんでした。

さらに、カルワリオの十字架が刻まれた石碑が見つかった熊本県天草市をネット検索すると「島原の乱」につながり、「詳しく調べていきました。「島原の乱」は、「島原・天草の乱」「天草一揆」とも呼ばれています。「島原の乱」というと、私には「隠れキリシタン」のイメージが浮かびます。

寛永14(1637)年から翌15年にかけて島原(長崎県)と天草(熊本県)のキリシタン信徒が起した一揆のことです。キリシタン弾圧や過酷な年貢に苦しむ島原と天草の農民が、16歳だった天草四郎時貞を指導者として蜂起しました。約3万7千人が原城に立てこもり、幕府や諸藩の制圧軍と戦った末、ほとんどが殺害されたといいます。

一般的に捉えると「島原の乱」は、キリスト教徒の一揆と幕府によるキリスト教弾圧という姿に映ります。しかし、収集したネット情報と自分の感覚から「島原の乱」の本当の意味が分かって来ました。島原の乱は、カトリックとプロテスタントというキリスト教の宗派による抗争だったと感じます。

島原の乱について「当時オランダとポルトガルは、オランダ・ポルトガル戦争(1603−1663)を戦っており、日本との貿易を独占して敵国ポルトガルを排除しようとするオランダの思惑もあったとされる」とウィキペディアに記述されています。ポルトガルはカトリックの国、オランダはプロテスタントの国です。

島原の乱を通じて、日本の主導権を握るキリスト教の宗派の入替えが起こったと感じます。日本を主導していたキリスト教がカトリックからプロテスタントに移行したのです。「隠れキリシタン」と呼ばれるキリスト教信者は、カトリックの宗派です。純粋にキリスト教を信仰する人だと感じます。

個人的には、キリスト教カトリックは純粋な闇の役割、プロテスタントはエゴの闇の役割と捉えています。地球を暗闇にするために闇は浅いものから深いものに移り、純粋な闇からエゴの闇に変わって来ました。結果的に、プロテスタントは「隠れキリシタン」という弱者のイメージを上手く利用し、利益に繋げて行ったと感じます。

島原の乱を契機に、江戸幕府の貿易相手国がポルトガルからオランダに変わっていきました。長崎貿易の相手国は、イギリス、スペイン、ポルトガル、オランダに移り替わりました。1641年から1859年まで、長崎の出島において、オランダ東インド会社を通して対オランダ貿易が行われていたのです。

キリスト教がカトリックからプロテスタントに変わり、貿易国がポルトガルからオランダに移ったのです。このことから、日本にとって「オランダ」は、大きな影響を受けた国だと感じます。いわゆる「同和の闇」が日本に広がった要因の1つに「オランダ」という国があると推測しました。

【関連記事】
金山と繋がっていた隠れキリシタン
北海道 十勝平野の十字架の封印解除 〜巡礼の旅(509)〜
新潟 キリシタン塚 〜巡礼の旅(297)〜

posted by 地球の子 at 20:23| 長崎県 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする