2020年05月31日

北海道 エゴの闇を広げる仕組のバッタ塚 〜巡礼の旅(538)〜

「札幌・手稲地域を開拓した仙台藩や奥羽越列藩同盟に関係した人たちの魂が留まっていると分かった。バッタ塚は、エゴの闇で封じる役割と分かった。水の場所である光の地を封印するための仕組だった。御魂とエゴの闇を光に統合するよう光を降ろした。」

昨年12月下旬、札幌市営地下鉄・東西線の宮の沢駅に用事で行くついでに「手稲記念館」を見学して来ました。札幌市で訪れてない所の雰囲気や歴史を知る機会でもありました。事前に目的地は決めてませんでしたが、駅を出た所にあった地図を見て決めました。

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「手稲記念館」は、札幌市西区西町にあり、駅から徒歩10分程の所でした。小さな公民館の中にある資料室のような感じでした。部屋には、資料や写真、動物のはく製などたくさんの物が展示されていました。手稲地域は、開拓の歴史の説明にもありましたが、明治時代に仙台の人たちによって開拓されました。

旧仙台藩の白石城主・片倉小十郎邦憲が北海道開拓を命ぜられ、家臣150戸600余人が開拓に入ったといいます。その後、50戸241人が手稲の地に入植したのが発祥とされています。札幌市白石区の名称も、この白石城から来ているそうです。部屋に入ると、すぐに独特の異臭を感じました。

以前、訪れた北海道知事公館の時のような臭いがあり、闇のエネルギーだと感じました。「闇が凄いから光を降ろした方がいい」と伴侶が言って来たので、私は祈りながら光を降ろしました。人間に殺された沢山の「野生動物たち」と金や他の鉱物が産出される「手稲山」が気になっていました。

帰宅後、PCに向かって調べものをしていると、急に喉の詰まりと胸の苦しさを感じました。伴侶に視てもらいながら、自分に光を降ろすと「もの凄い数の亡くなった人たちが来ている」と驚いた様子で伝えて来ました。「亡くなった武士やお百姓さんなどいろんな人たちが沢山いる」といいます。

パソコンで調べている時「奥羽越(おううえつ)列藩同盟」が目についていました。奥羽越列藩同盟は、戊辰戦争に際して奥羽、北越の諸藩が、官軍に抗戦するために結んだ攻守同盟です。私は、亡くなった人たちの御魂が上がるよう光を降ろしました。「みんな昇って行っている」と伴侶が伝えて来ました。

胸の不調は幾分改善しましたが、喉の詰まりは、まだ残っていました。思い当たるポイントをネットで調べて、「手稲神社奥宮」「手稲山」などをピックアップして、1つずつに光を降ろして行きました。しかし、喉の調子は変わりません。最後に気になっていたのが、「バッタ塚跡」でした。

手稲記念館にも「バッタ塚」の土が展示されていました。「バッタ塚」とは、明治時代に、蝗害(こうがい:バッタによる災害)の根絶を祈願して建てられた記念碑です。手稲地域にあったのが手稲山口バッタ塚です。北海道開拓使時代に、十勝地方から札幌までバッタが大量発生して作物の被害が発生しました。

明治政府は被災者の救済も兼ねて市中からバッタの卵を買い集め、砂地だったこの地に埋めて、バッタを減らそうとしたといいます。「バッタはゴキブリと同じくらい嫌なもの」と伴侶が言いました。過去のワークで「ゴキブリ」は、エゴの闇を広げる役割で、闇のエネルギーだと分かっていました。

北海道には「ゴキブリ」は生息しないので、エゴの闇を広げるために「バッタ」が代用されたと感じました。「バッタ屋」「バッタもん」という言葉からも分かります。バッタの卵を土に埋めることはエゴの闇を置くことでした。バッタ塚跡を意図して光を降ろすと「火で燃えた感じ」と伴侶が伝えて来ました。

さらに、開拓時代、北海道で闇の仕事をしていた過去世の自分が統合するよう光を降ろしました。ようやく喉の詰まりが治りました。手稲は、アイヌ語で「湿った所」の意味で、湿地帯でした。本来は水の場所であり、光を封じるためにエゴの闇で覆ったのです。北海道開拓に関係するワークは、さらに続いて行くことになります。

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posted by 地球の子 at 12:41| 北海道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする