2020年07月27日

鹿児島 同和の闇に変わった薩摩の地 〜巡礼の旅(553)〜

「島津忠久が源頼朝から薩摩国の守護職を命じられ、裏インドの闇を広げる役割の島津氏は始まった。いろは歌の日新斎としての島津忠良から同和の闇の役割に変わって行った。隠し演じて利益を得る同和の闇への変化は桂庵玄樹がキーパーソンだった」

2月上旬、夜寝ていると左足のふくらはぎにチクっとした痛みがありました。いつもながら、体の痛みや違和感は、闇の解除の場所を知らせるためのサインでした。とは言え、痛みや不調は余り受けたくないので、弱い痛みにして加減してくれているのを感じました。

mitsuishi.jpg

左足のふくらはぎの部分は、日本列島の鹿児島県の薩摩半島でした。うつ伏せになった姿が日本列島全体になっています。翌朝、薩摩半島をパソコンで調べて行くと鹿児島県「南さつま市」だと思いました。これまでのセッションやワークから、鹿児島は深い闇の場所だと理解していました。

「裏インドの闇」という深い闇を広げる役割をする土地でした。その主役が薩摩を拠点とする島津氏です。島津氏は、家祖の島津忠久が源頼朝に薩摩国を含む南九州の守護職を命じられたのが始まりとされます。島津氏は南九州の氏族として守護から守護大名、さらには戦国大名へと発展を遂げました。

その全盛期には九州のほぼ全土を制圧するに至りました。これまでのワークから、源頼朝は、日本を暗闇にするために「裏インドの闇」を広げる役割をしていた人物だと分かっていました。「裏インドの闇」は、現在でいうと「米国派」の闇です。純粋な闇を封じるエゴの闇の役割と言えます。

「裏インドの闇」の原点は伊豆半島です。伊豆半島は世界地図でインドに相当します。源頼朝が流罪の身で過ごした伊豆の地と鹿児島の地の2箇所から深い闇を広げて来たと感じます。南さつま市に縁ある土地を調べて行きました。亀ヶ城神社、金峰神社から「島津忠良」「安閑天皇」に焦点を合わせました。

土地を開いて魂が上がるよう意図して、亀ヶ城神社と島津忠良のそれぞれに光を降ろしました。島津忠良に光を降ろすと「同和の人」と伴侶が伝えて来ました。島津忠良は島津家の分家・伊作家の出身で、幼少期から桂庵禅師から「朱子新註四書」の学習を受け「朱子学」「論語」を学びました。

また、禅を修め、神道の奥儀を究め、儒学、禅、神道の三教を融合した「日学」という流派を開いたといいます。晩年、島津忠良は、日新斎と改名して、人間としての履み行うべき道を教え諭した「いろは歌」の創作したとされています。いろは歌とは、仮名を重複させずに使って作られています。

七五調の韻文(いんぶん)としての47字の誦文(ずもん)のことです。韻文とは、聴覚に一定の定まった形象を感じさせる一定の規則(韻律)に則って書き表された文章です。いろは歌は、狂歌と同様に闇にするシリウスの術だと感じます。エネルギー的に闇の渦巻き形成するカタカムナと同じだと思います。

後で調べると桂庵禅師も重要なキーパーソンでした。桂庵禅師(1427年-1508年)は、室町時代の臨済宗の僧です。本名が「桂庵玄樹」で、薩摩国を中心に栄えた儒学の一派である薩南学派の祖として名を成しました。建仁寺や南禅寺の住持となり、薩摩に東帰庵を営んで同地に住み、82歳で死去しました。

桂庵禅師は、同和の拠点の地としての「赤間神宮」のある長門国(山口県)赤間関の出身でした。同和の闇は、隠し演じて利益を得るやり方です。桂庵玄樹に学んだ島津忠良は、薩摩の地に、中国大陸の文化の影響を与えた人物です。薩摩の地は、その闇の役割が米国派から同和派に移行していったのだと感じます。

【関連記事】
山口 赤間神宮 〜巡礼の旅(180)〜
福井 米国派を操る同和の闇の支配 〜巡礼の旅(522)〜
広島 天皇派の拠点だった暗闇の広島 〜巡礼の旅(527)〜

posted by 地球の子 at 11:50| 鹿児島県 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする