その日、「談山神社のワードが来ている」と伴侶が話してきました。テレビやネットで談山神社の言葉を幾度か見かけていたといいます。談山神社は、藤原不比等の墓所があり、2014年9月に巡礼の旅で訪れて、不比等の御魂を上げた神社でした。

何か意味あるサインだと感じて、談山神社についてウィキペディアで調べました。談山神社は、奈良県桜井市の多武峰(とうのみね)にある神社で、祭神は藤原鎌足(中臣鎌足)です。桜と紅葉の名所として知られています。神仏分離以前は、寺院であり、田多武峰妙楽寺と言われていました。
談山神社の名前の由来は、中臣鎌足と中大兄皇子が、645年(大化元年)5月に大化の改新の談合を多武峰にて行い、のちに「談い山(かたらいやま)」「談所ヶ森」と呼んだことによるとされます。大化の改新によって、日本は、それまでの豪族を中心とする政治体制から、天皇を中心とする政治体制に変わりました。
大化の改新の前段の乙已の変(いっしのへん)で、中臣鎌足(藤原鎌足)と腹心の中大兄皇子(天智天皇)が蘇我入鹿を暗殺し、父親の蝦夷を自殺に追いやりました。蘇我氏は、稲目、馬子、蝦夷、入鹿の4代に渡って政権を維持して来ました。
藤原鎌足の藤原氏は、豪族中心の政治体制を維持し実権を握っていた蘇我氏を排除したのです。そういう意味では、談山神社は、現在の日本の中央集権政治体制の構築の原点となる場所だと感じます。また、《鞠に託した国造りの志 談山神社(時の回廊) 十三重塔 奈良県桜井市》の日経新聞の記事を見つけました。
そこから、談山神社は蹴鞠の発祥地だと知りました。蹴鞠とは、平安時代に流行した球技の1つで、鹿皮製の鞠を一定の高さで蹴り続け、その回数を競う競技です。蘇我氏打倒を期す鎌足は、法興寺(奈良県明日香村)で蹴鞠会(けまりえ)を催した中大兄皇子に近づきました。
そして、鞠を蹴った拍子に脱げた皇子のくつを手に取り、跪いて捧げたとされます。また、談山神社には十三重塔があります。中臣鎌足の死後、唐から帰国した長男の僧の定恵(じょうえ)は、678年、この地に父の遺骨の一部を改葬し、墓所としました。
その後、十三重塔を建立し、これが談山神社の始まりといいます。定恵は、初めて聞く名前なので、ウィキペディアを見てみました。定恵(643年-666年)は、飛鳥時代の学僧で、出家前の俗名は、中臣真人(なかとみのまひと)です。父は中臣鎌足(藤原鎌足)、弟は藤原不比等です。
藤原氏の前身である中臣氏は、神祇に関わる廃仏派で、崇仏派の蘇我氏と対立していました。
中臣鎌足は、当時の重臣であり、その長男である定恵(中臣真人)が出家するのは、熱心な仏教信者として知られる蘇我氏においてもなかった前代未聞の事態で不可思議です。
この定恵の謎が、今回の談山神社のワークに関係していると感じました。定恵は、中臣(藤原)鎌足が父親とされるのが通説です。しかし、調べてみると第36代天皇の孝徳天皇(在位645年-654年)の次男で、有間皇子の弟という説もあります。
日本の最初の仏教通史「元亨釈書」では、定恵を孝徳天皇の子と明記されているといいます。有間皇子は、蘇我氏と中臣氏の対立に深く関わり、天皇への謀反計画が発覚して命を終えた人物です。有間皇子に近づいて、謀略をしたとされるのが蘇我赤兄(そがのあかえ)です。
斉明天皇や中大兄皇子の失政を指摘して、自分は有間皇子の味方だと告げました。有間皇子は喜び、斉明天皇と中大兄皇子を打倒するという自分の意志を明らかにしました。ところが、蘇我赤兄が中大兄皇子に密告したため、謀反計画が露見して、翌々日に絞首刑に処せられました。
658年、享年19でした。これは藤原鎌足の策略だとされます。同じ蘇我氏でも宗家の蘇我入鹿とは異なり、蘇我赤兄は分家であり、そこを藤原鎌足は利用したのです。《藤原鎌足の陰謀の法則》には、蘇我入鹿の殺害、有間皇子の処刑の他にも鎌足の謀略の事実が記されています。
643年の山背大兄王(=厩戸皇子の長男)の殺害、645年の古人大兄皇子(=舒明大王の長男)の殺害、649年の蘇我倉山田石川麻呂(=筆頭分家の長男)の殺害です。藤原鎌足のこうした謀略の流れを見ていくと定恵は、鎌足に利用されたと感じます。
その客観的な状況証拠の1つが、定恵の死期です。665年9月に、朝鮮半島の百済を経て、唐から日本に帰国しましたが、同年12月に大原(現在の奈良県高市郡明日香村)で亡くなっており、暗殺されたと言われています。藤原鎌足、中大兄皇子、定恵、有間皇子、蘇我赤兄のそれぞれの御魂が上がるよう光を降ろしました。
定恵については「使われた人。工作活動に使われた人」と伝えられました。蘇我氏と中臣氏の対立の中で、調略、謀略などの工作活動を通じて幾つもの命が奪われたことが分かります。2014年9月の奈良巡礼の旅で飛鳥寺の蘇我入鹿の首塚で光を降ろした際に、入鹿が伝えてきました。
「私も黒いことをしてきた。大陸の人たちと上手くやろうとしたが、向こうのほうが勝っていた」。「向こうのほう」とは中臣鎌足ことです。日本を封じるために、大陸、朝鮮半島から渡ってきた渡来人たちが、日本国内において、勢力争いで激しく戦ってきた歴史が垣間見えます。
談山神社について、蹴鞠の発祥地であることが気になりました。ウィキペディアを見ると、蹴鞠名人の藤原成通(ふじわらなりみち)の夢に出てきた、3匹の猿の姿をした鞠の精霊が、蹴鞠の守護神として、大津の平野神社と京都の白峯神宮に祀られているといいます。
また、蹴鞠を家業とする家の1つが、賀茂氏・賀茂神社です。日本サッカー協会のシンボルマークは、下鴨神社の祭神・賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)の化身とされる「八咫烏」です。蹴鞠の鞠の皮は鹿であり、シリウスや精霊と関係していると感じました。
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