2022年04月30日

インド インパール作戦を強行した牟田口廉也中将と大東亜戦争の裏にある軍資金稼ぎの闇 〜巡礼の旅(664)〜

「日本兵3万人死亡のインパール作戦を強行した司令官・牟田口廉也中将の背後には、大東亜戦争における阿片政策などによる軍資金稼ぎの闇が隠されている。天皇を中心とする大本営が戦争という命を金に換える工作を通じて金儲けしてきた支配の闇が存在する。」

ネットゲリラの記事《インパール安倍》を読んで、インパール作戦の司令官・牟田口廉也中将の挙動が、安倍晋三首相に非常に似ていると思いました。引用の元記事は、週刊文春の《「インパール作戦」を強行した牟田口廉也中将 毎夜料亭で酒を飲み、芸者を自分の部屋に》です。

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インパール作戦とは、第二次世界大戦(大東亜戦争)のビルマ戦線において、1944年(昭和19年)3月に帝国陸軍による開始し、7月初旬まで継続された、日中戦線における英・米・ソの中華民国への援助ルートである援蒋ルートの遮断を戦略目的として、英領インド帝国北東部の都市・インパール攻略を目指した作戦のことです。

作戦に参加した殆どの日本兵が死亡した(死亡者3万人、傷病者4万人)ため、「史上最悪の作戦」と言われています。当初より軍内部でも慎重な意見があったものの、牟田口廉也中将の強硬な主張により作戦は決行されました。

物資の配給や整備、兵員の展開や衛生、施設の構築や維持などの軍隊の後方、支援活動である兵站(へいたん)を無視し精神論を重視した杜撰な作戦により、多くの犠牲を出して歴史的敗北を喫したために、「無謀な作戦」の代名詞として、現在でも、しばしば引用されます。

牟田口廉也中将は、生きるか死ぬか命がけの戦場において、部下の兵士を最前線に進める指令を出す一方で、自分は一番涼しい場所に本部を構えて居座り、汗をかかないどころか、毎夜料亭で酒を飲み、宴会気分で芸者遊びをしていたといいます。

安倍晋三首相は、自然災害や新型コロナの非常時に、仲間と宴会や会食をして批判を浴びました。部下や国民のことではなく、自分の都合や立場を最優先し、際立った利己主義な点が重なります。牟田口廉也中将は、インパール作戦失敗の後、第15軍司令官を罷免されました。

参謀本部附となり、予備役に編入されます。戦後、英国軍がシンガポールで開いた戦犯裁判でBC級戦犯の1人として裁かれましたが、嫌疑不十分で釈放され、帰国後は東京都府中市で余生を過ごしました。ウィキペディアを読むと、さらに驚かされました。

死去までの4年間はインパール作戦失敗の責任を問われると、戦時中と同様に「あれは私のせいではなく、部下の無能さのせいで失敗した」と頑なに自説を主張し、多くの機会で繰り返されたといいます。極めつけは、自分の葬儀において行われたことです。

「遺言により、自説を記したパンフレットを参列者に対して配布させた」と記載されています。最期まで、自分を省みることをしないで、傲慢なままに、誰かのせい何かのせいという責任転嫁して来たのです。

ここまで来ると、人間の資質の問題というよりも狂人的なものさえ感じます。純粋さを失ってエゴが極限的に増大した状態であり、日本を深い暗闇にするために、何か大きな意志が働いていたと思わざるを得ません。インパール作戦について、さらにネットで調べました。

無謀と言われたインパール作戦 戦慄の記録》のNHKのサイトを見つけました。英国で見つかった膨大な機密資料や兵士の証言などからインパール作戦の真実に迫っています。73年前に大日本帝国陸軍が決行したインパール作戦は、約3万人が命を落としました。

太平洋戦争で最も無謀な作戦と言われました。そのような無謀な作戦が強行されたことが、現場の責任者である第15軍司令官・牟田口廉也中将の1人に由来するのかがポイントだと思います。NHKのサイトに記載された副題がありました。

「上層部の人間関係が優先された意思決定」「軽視された命」「作戦継続に固執した大本営」「作戦の責任を転嫁する上層部」から、硬直化し腐敗した組織の姿としての大日本帝国軍の全体像が垣間見えます。大日本帝国軍を皮肉る表現の1つとして「大本営 逐次投入」があります。最高本部の命令が絶対であり、大局的な視点に欠けていました。

その場その場の場当たり的な対応処置を行うことを意味しています。「大本営」とは、戦時の天皇直属の最高統帥機関で、日清・日露戦争時に設置されました。もっとストレートに言うと「見た目の権威を振りかざして不合理なものを強制する支配体制」というニュアンスになると思います。

どうして大日本帝国軍がこうした軍隊組織になってしまったのでしょうか。それは、隠してきた秘密があったからです。日本及び大日本帝国軍は、アジアの植民地を広げるための戦争のスローガンとして「大東亜共栄圏」「八紘一宇(はっこういちう)」を掲げていました。

欧米勢力から独立して、日本を盟主として東アジアを中心に政治的、経済的な共存共栄を図る政策です。簡単に言えば、天皇の下に豊かさを共有する人々の生活圏を構築するという感じです。これは、あくまでも綺麗ごとのお題目だと思います。

隠された本質は、麻薬政策などの裏の資金稼ぎのためのアジアの植民地の拡大を目指していたのです。日本は、日清戦争以降、台湾、朝鮮半島、中国満州を植民地にして、麻薬政策(アヘン政策)による統治を実施して来ました。植民地の人々に麻薬を蔓延させて、麻薬中毒患者を増やしました。

麻薬を販売することで巨額な資金を稼いでいました。《知られざる「麻薬大国」ニッポンの裏面史》には、麻薬の利益で太平洋戦争の戦費を賄ってきた日本の隠された姿が記されています。この中で、「台湾総督府のアヘン収入が当時で約423万円である。小学校教員の初任給が10円程だった時代の話だ」とあります。

現在の小学校教員の初任給を20万円として計算すると約846億円になります。日本は、麻薬政策による植民地統治の旨味を知ったのです。日本は、アヘン、モルヒネ、ヘロイン、コカインといった麻薬を利用した植民地拡大のための戦争の道に突き進んで行きました。

当然、当時の日本は麻薬の生産も行っていました。1935年の国際連盟の統計では、日本のモルヒネ生産額は世界第4位、ヘロイン生産額は世界第1位、コカイン生産額は世界第1位であり、世界有数の「麻薬大国」だったのです。

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posted by 地球の子 at 20:25| インド | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする