瀬島龍三(せじまりゅうぞう:1911年-2007年)は、富山県出身の陸軍軍人、実業家です。太平洋戦争の殆どの期間を参謀本部部員(作戦課)として務め、最終階級は中佐でした。戦後は、伊藤忠商事会長、中曽根康弘元首相の顧問など多くの要職に就任しました。

政治経済界に大きな影響力を持ち、「昭和の参謀」と呼ばれました。瀬島龍三のウィキペディアには、「瀬島をかくれ共産主義者で、ソ連工作員とみなす論が松本清張はじめ多数ある」と記されています。また、ソ連の対日工作責任者であったイワン・コワレンコの証言もあります。
「シベリア抑留中の瀬島龍三が日本人抑留者を前にして『天皇制打倒!日本共産党万歳!』と拳を突き上げながら絶叫していた」 と証言したとされます。ソ連や共産主義は、ロスチャイルドが創った米国の自由主義への対立軸としての勢力です。
この時点で、瀬島龍三は、ロスチャイルドの工作員で日本から大金を奪取する役割だったと感じました。さらに、《瀬島龍三の闇》には、鬼塚英昭著「黒い絆 ロスチャイルドと原発マフィア」を基づいて、瀬島龍三の黒幕の本質が綴られています。
「彼の活動のなかで一番有名なのは、終戦前後の対ソ連工作であった。大本営参謀として、ソ連が天皇を戦犯で東京裁判に訴えることを察知すると、瀬島はシベリアに渡り、天皇の免責と引き換えに、五十万以上の兵隊がシベリアに抑留され、強制労働させられることをゆるした。」
「1956年に釈放されると、1958年、伊藤忠商事に入社、1978年に同社の社長になった。天皇の影武者として、その生涯、中曽根康弘ら多くの政治家を自在にコントロールした。瀬島は戦後、情報機関をつくり、原発第一号の正力松太郎もその指揮下においた。
私は、瀬島龍三こそが日本の最高権力者であり続けたのではないかと思っている。」「瀬島の伊藤忠商事での仕事は陸軍参謀時代に培われた人脈を駆使した戦後補償ビジネスであったことは周知の事実であろう。このビジネスを瀬島が仕切ったことで、伊藤忠は日本でも有数の総合商社に飛躍した。
日本の戦後補償は東南アジア諸国全域にまたがった。戦争で占領した各国の主にインフラ整備のために日本がお金を出す。非常に大きなカネが動いた。ヒモ付きODAの先駆けであった。」「日本政府が東南アジア諸国政府に補償金を支払っていた。
その国の政府が基盤整備工事を日本の会社に依頼する。これも周知の事実だが、インドネシアに対して日本政府が投じたカネは他の東南アジア諸国よりも断然多い。瀬島が入社したあとの伊藤忠商事はわずか10年程度で大手商事会社の仲間入りを果たしている。」
瀬島龍三が、大本営、陸軍参謀の人脈を利用して、天皇、首相、経済人、メディアなど日本の支配層を動かし、日本を暗闇にして来た優秀な頭脳を持つ諜報部員であることが分かります。大東亜戦争からの戦後補償ビジネス、ODA利権に繋がる闇の仕組が創られたと感じます。
瀬島龍三の御魂が光に還るよう意図して光を降ろすと「頭の大きな宇宙人がいた」と伴侶が伝えて来ました。芸能事務所の背後にいたタコの宇宙人のボス的存在の宇宙人です。タコの宇宙人は、原発関連施設で実務をする実働部隊ですが、このタコの親分の宇宙人は、シンクタンクの役割をしています。
コンピュータのような頭脳を使って、地球の闇の仕組のデザインとプランニングをしている感じです。巨額な金になる人身売買と松果体利権については、ネット情報のどこにもありません。しかし、ユダヤ財閥のロスチャイルドと手先の瀬島龍三は、大金となる松果体利権の支配を狙っていたと思います。
深田祐介著「神鷲(ガルーダ)商人」に基づく《本の紹介1冊目〜続きD〜:神鷲(ガルーダ)商人 伊藤忠商事の介入》には、伊藤忠商事の瀬島龍三のインドネシアでの活動が記述されています。1962年、インドネシアのゲリラ軍が西イリアンに潜入していました。
各地でオランダ軍と衝突して、勝利を収めることになります。 その歴史的背景には、瀬島龍三がいました。瀬島龍三は戦時中、日本陸軍でニューギニア侵攻作戦を立案した人物でした。インドネシアのスカルノ大統領からの要請で、インドネシア軍に力を貸していたのです。
瀬島龍三は、インドネシア軍の参謀に西イリアン侵攻作戦を教授していました。そして、見事に伊藤忠商事は、初案件として、インドネシア国家警察への日本製ジープ等の車両1000台(800万$)を受注することになりました。瀬島龍三の軍人時代の先輩参謀・辻正信のツテを利用して、東日貿易の久保と知り合ったことが成約のカギでもありました。
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