2022年11月02日

奈良 日清戦争時の広島大本営と朝鮮人労働者による天理御座所の地下壕建設 〜巡礼の旅(695)〜

「日清戦争の際に大本営が東京から広島に移転した。天皇の御座所の地下壕建設が奈良県天理市だった。広島市と天理市に天皇の拠点をつくったのは、松果体収穫の利権と深く関係していると推察する。戦争とは、国民を騙して裏で金儲けを行う支配層の工作と言える。」

その日の夜、地下壕のネット検索をしていると左腹部に痛みがありました。場所はどこかと思案すると「広島」だと感じました。広島は、「軍都」という日本の軍隊の施設が多くあった場所でした。私が知っている広島県の地下壕は、日清戦争前に広島大本営が置かれた「広島城」でした。

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2019年11月に広島の軍都関連で遠隔ワークを行っていました。大本営とは、日清戦争から太平洋戦争までの戦時中に設置された日本軍(陸海軍)の最高統帥機関です。天皇の命令(奉勅命令)を大本営命令として発令する最高司令部としての機能を持ちます。

本来、「本営」とは総司令官が控える場所で、これを更に仰々しい名にしたものです。広島大本営は、1894年(明治27年)に勃発した日清戦争の戦争指揮のために、広島県広島市の広島城内に設置された大日本帝国軍の最高統帥機関としての大本営です。

1895年に明治天皇が戦争指揮のために広島に移り、あわせて大本営も東京を離れて広島に移ってきたのです。国家元首の天皇が滞在し、臨時の帝国議会も広島で開催されたということで、一時的に広島が首都機能をもったとも言うことができます。

2014年11月の広島巡礼の旅で広島城址公園を訪れて、中国軍管区司令部の地下通信室跡に光を降ろしていました。地下通信室跡には、半地下式の作戦司令室、通信室が設けられていました。昭和20年8月6日午前8時15分、原子爆弾の一閃により中国軍管区司令部は壊滅しました。

当時、女学生が広島の壊滅を通信したのが、広島の原爆被災の第一報といわれています。この際、サポートしてくれていた太陽と月の龍神たちが地下壕跡に入って浄化したのを覚えています。そこで、「どうして広島に大本営が移ったのか」という疑問が浮かんできます。

その答えをネットで調べると《旧帝国陸海軍:広島大本営跡》に、「司令部の原則として、戦地に近いほうがよいという前提で、広島が山陽鉄道の(当時の)西端だったこと、補給物資の積み出しに、宇品港(現:広島港)の存在が大きかったのだろうと考えられています。」と記載されています。

広島大本営のウィキペディアによると、1894年9月15日に明治天皇が広島大本営入りし、1895年4月27日に大本営を京都に移し、明治天皇が広島出発しています。1896年4月1日に大本営が解散されました。1894年7月25日から1895年4月17日までの日清戦争の期間だけ広島に大本営が置かれていたことになります。

1895年4月から約1年間、京都に大本営があったことも疑問です。これまでのワークや記事の流れから広島大本営の設置は、松利権(松果体利権)に関係していると感じます。日清戦争の期間、松果体の収穫、人身売買など表に出来ない秘密の出来事が行われた可能性を感じます。

ヒントや手掛かりを得るために、大本営の移転先についてネットで調べていくと、奈良県天理市の「天理御座所(奈良行宮 地下壕)」と長野県長野市の「松代大本営跡」に行き着きました。いずれも地下壕は作られたのですが、移転は実行されずに1945年8月15日の終戦を迎えています。

天理御座所(奈良行宮予定 地下壕)》には、大東亜戦争末期に、明治天皇の行宮地下壕が奈良県天理市豊田町に作られたことが記されています。1945年(昭和20年)5月、奈良県天理市の奈良海軍航空隊の格納壕として設営されていた一本松山の地下壕を転用しました。

そして、予科練生2,000名により拡張、強化が開始されました。画像を見ると一本松山の中に幾つかの地下壕跡があったことが分かります。天理御座所は、グーグルマップで奈良県天理市豊田町を調べると、天理教教祖墓地など天理教施設が置かれている場所です。

天理教のウィキペディアによると、1943年(昭和18年)10月に約80箇所の信者詰所が旧日本海軍予科練の兵舎として徴用されたといいます。《柳本飛行場(大和海軍航空隊大和基地)》には、天理に残されている戦争遺跡「柳本飛行場跡」の滑走路跡、格納庫跡、防空壕跡などが紹介されています。

1944年9月15日から柳本飛行場の建設が始まり、地元の人々をはじめ、多くの人が関わり、その中には、3000人に及ぶ朝鮮の人々の存在がありました。強制連行されて就労した人、日本で生活していて集められた人などです。当時、周辺の山にはトンネルが数多く掘られました。

そのトンネルを「御座所」や大本営にしようとしていたのです。《奈良の朝鮮人連行と「慰安所」跡を訪ねて》には、強制労働を強いられた朝鮮の人の証言もあり、生々しい当時の状況が記されています。多くの朝鮮人労働者が強制的に連行され就労させられていました。

当時は慰安所もあり、植民地朝鮮の女性が性奴隷とされた悲しい歴史の跡地でもあります。兵力不足を補うため学徒が戦線へ送り込まれるなど、戦時総動員体制が強化され、戦闘員として動員された労働力の不足を朝鮮半島や台湾から補充しなければならなくなった時期です。

強制連行され柳本の労働に従事させられた人は、「(忠清南道)論山から釜山まで列車で運ばれ、下関からはトラックや貨車で天理まで運ばれた。何百人かいた。村からは4人が連行された。山の下に寄宿舎があり、トンネルも掘った。「慰安所」には朝鮮人女性が何十人か連行されていた。」と話しています。

1894年の日清戦争から始まった日本の戦争の道における大きな闇の一端が垣間見えます。ここでも、どうして奈良県天理市の地に「御座所」という大本営の拠点を置こうとしたのかが疑問になります。なぜ、奈良県天理市の地に大規模な地下施設を作ろうとしたのか、です。

「海軍が柳本飛行場とその周辺を本土決戦時の重要な拠点とする計画を立てて実行していたから」とありますが、説得性に欠けると思います。個人的には、天理教という宗教との繋がりがあったと捉えた方が合理的だと感じます。松果体摂取の起源は原始キリスト教です。
儀式を行う宗教を隠れ蓑にするのです。

松利権の秘密が維持されて来た歴史があります。菊の御紋は、松利権を有する支配者を意味します。天皇をトップとする大本営が天理教と松利権を行使できるための御座所の選定だったと感じます。逆に、戦争というものは支配者の金儲けのための隠れ蓑にもつながります。
戦争は、支配者の利権の拡大と行使のために利用されたとも言えます。

現代のアドレノクロム利権にもつながる松利権は、人命よりも金という非人間的な拝金主義の極致にあるものです。天理御座所の地下壕などの土地に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「いいです。光は入りました」と伴侶が伝えて来ました。奈良県天理の地が本来の姿になることを願っています。

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posted by 地球の子 at 17:12| 奈良県 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする