2022年12月16日

沖縄 テンペストから繋がった琉球王国を源流とする沖縄に秘める同和の闇 〜巡礼の旅(701)〜

「琉球王国は、中国の明・清と日本の薩摩の2つの支配を上手く潜り抜け、独自の松利権を有していた。首里城の地下に松果体収穫施設があり、キリスト教勢力の欧米列強の攻勢を受けていた。今の沖縄に根づく弱者を装って利益を得る同和の闇の源流は琉球王国だと気づいた。」

NHKBS時代劇「テンペスト」の動画を観る機会がありました。仲間由紀恵・主演の沖縄・首里城を舞台とした19世紀の琉球王国のドラマです。テンペストを観たことで、沖縄の歴史と琉球王国の位置づけを知ることになり、沖縄の闇の紐解くヒントを与えてもらったと感じます。

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具体的には、2つのことに気づきました。1つは、琉球王国が中国(明国または清国)の支配と日本の薩摩藩の2つの支配を上手くすり抜けて、独自性を持っていたことです。これは、現在の中国と日本を支配下に置いた米国の両方を使い分けながら同和の闇の役割を担ってきたということです。

もう1つは、琉球王国時代の首里城には地下施設が存在していたことです。ドラマの中でも洞窟のような場所が出て来ます。《クラシン御門(うじょう)について》に記述されていますが、通路は窓がないので昼間でも洞窟のように真っ暗で、クランク状に曲がっていて、直進ができない構造だといいます。

地下施設があることは、松果体摂取という松利権の行使に繋がります。当時の琉球王国は、米国のペリーなど欧米列強の進出を受けており、「ベッテルハイム」という名前の実在した英国籍のユダヤ人医師兼キリスト教プロテスタントの宣教師も登場します。

こうした状況から松利権を有していた琉球王国の国王は、松利権の奪取を目的にして、中国大陸やキリスト教勢力、欧米列強、日本の薩摩藩という外敵から攻勢を掛けられていたと感じます。また、首里城の地下施設というと旧日本軍の地下壕の司令部を思い出します。

太平洋戦争中の沖縄戦において日本軍が首里城の下に地下壕を掘り陸軍第32軍総司令部を置いていました。《沖縄 首里城下 第32軍司令部壕跡》には、2013年9月の沖縄巡礼の旅で訪れた首里城の地下司令部の闇の解除ワークについて記述しています。

首里城 地下に眠る戦跡 旧日本軍 第32軍司令部壕》には、NHKの取材班がはじめて首里城地下の司令部壕に入って撮影した画像が掲載されています。第32軍司令部壕は、琉球王国時代の地下施設を利用して作ったものではないかと思います。

第32軍司令部壕は、アメリカ軍が上陸する4ヶ月前の1944年(昭和19年)12月から首里城の地下に突貫工事で作られました。全長は1km余りで、首里城の地下およそ30メートルを南北に縦断するように掘られているといいます。里城にある第32軍司令部壕は、幾度もワークを行いました。

非常に大きく深い闇だと感じていました。沖縄戦は、多くの人命が犠牲になっています。沖縄には、ひめゆりの塔に代表される慰霊の場所に、ガマと呼ばれる自然洞窟が多数あります。戦争を隠れ蓑にして、権力者による松利権の行使のために、多くの人々の命が奪われた可能性があります。

首里城は、2019年(令和元年)10月31日未明に火災が発生し、正殿と北殿、南殿が全焼しましたが、その後の調査結果では原因不明となっています。フランス・パリのノートルダム大聖堂では、2019年4月15日から4月16日にかけて大規模な火災が発生し、尖塔とその周辺の屋根が崩落しました。

首里城火災と同様に、火災の原因は不明となっています。この2つの歴史的な建造物に共通することは、世界遺産という観光名所であることです。そして、その裏には、松利権の行使という特定の権力者の利益のために秘密裏に多くの人命が奪われて来た歴史があることです。

古くから隠されて来た大きな闇を終わりにするための火災だったと感じています。個人的には、この2つの大きな事象は、水面下でアークが統合した「Q」が動いて闇を壊す活動をしていると見ています。沖縄は、第二次世界大戦やそれ以降、日本本土の捨石となったと言われています。

多大な犠牲を強いられて来たという印象がありますが、しかし、弱者の立場を利用した同和の闇を隠れ蓑にして、密かに利益を得ていた大きな闇が存在していると感じています。隠されて来た沖縄の真実を探求するために、まず、琉球王国の歴史を調べることにしました。

琉球王国は、1429年から1879年の450年間、琉球諸島を中心に存在した王国です。沖縄本島中南部に勃興した勢力が支配権を確立して勢力範囲を広げ、最盛期には奄美群島と沖縄諸島及び先島諸島までを勢力下におきました。当初はムラ社会(シマ)の豪族でした。

しかし、三山時代を経て沖縄本島を統一する頃には王国の体裁を整えました。明の冊封体制に入り、一方で日本列島の中央政権にも外交使節を送るなど独立した国でしたが、1609年の薩摩藩による琉球侵攻によって、外交及び貿易権に制限を加えられる保護国となりました。

その一方、国交上は明国や清国と朝貢冊封関係を続けるなど一定の独自性を持ち、内政は薩摩藩による介入をさほど受けませんでした。1879年の琉球処分により日本の沖縄県とされるまでは、統治機構を備えた国家の体裁を保ち続けました。

2016年5月の石垣島巡礼の旅で、フルスト原遺跡を訪れた時に、先住民のエネルギー体から与えられたメッセージを伴侶が伝えてくれました。「なきものにされたと言ってきている。やまとびとの人たちみたい。長(おさ)が伝えてきた。真実を書いて広めて欲しいと伝えて来た」。

琉球王国の侵攻によって石垣島の先住民・やまとびとが虐殺されたと感じます。日本の本土のやまとびとが渡来人に虐殺されたのと同様に、松果体の収穫のためだったのです。琉球王国の支配者が松利権を有していたと思います。琉球王国の秘められた歴史を紐解く必要があります。

そのためには、琉球王国の王家と国王をたどっていくことが大事でした。琉球王国の王家には、第一尚氏(だいいちしょうし)と第二尚氏(だいにしょうし)の2つの系図があります。第一尚氏(だいいちしょうし)は尚思紹王(しょうししょうおう)を始祖としていました。

7代63年間(1406年-1469年)続いた琉球最初の統一王朝をつくりあげた王家です。7代尚徳王の時に金丸(後の尚円王)の即位により王朝は滅亡しました。第二尚氏は、尚円王を始祖とし、尚円王即位の1469年から1879年までの410年間、沖縄の琉球王国を統治した王家です。

第二尚氏は、初代・尚円王から最後の尚泰王(しょうたいおう)まで、19代続き、廃藩置県後は日本の華族となりました。第19代尚泰王治世下の1879年(明治12年)、琉球処分が行われ、王家の琉球支配は終了しました。尚泰はその後東京への移住を命じられ、侯爵に叙せられます。

分家も男爵に叙せられ、尚泰は、沖縄との往来を禁止され、また一族の大半は、沖縄に残りました。現在も琉球王国の王家第二尚氏の末裔が健在でした。それが尚衞(しょうまもる)氏です。ウィキペディアによると、「尚衞(1950年8月18日-)は、はかつて存在した琉球王国の王家第二尚氏の第23代当主です。

玉川大学を卒業後、サムフォード大学にてMBAを取得。」「2019年5月に一般社団法人琉球歴史文化継承振興会を設立し、その代表理事を務める。三重県伊勢市に在住。子女4人。」と記載されています。「サムフォード大学」は、初めて聞く大学名であり、「三重県伊勢市に在住」というのも気になりました。

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posted by 地球の子 at 14:15| 沖縄県 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする