2023年06月25日

奈良 紀の川の水源がある大台ケ原山を封じた大台教会での松果体収穫の闇 〜巡礼の旅(725)〜

「松果体収穫が水源の山や水の光を封印する仕組になっている。紀の川の水源である大台ケ原山には大台教会があった。修験道や旧日本軍が密かに松果体収穫を行った場所だと感じた。松果体収穫の闇は、人の魂の光を封印するだけでなく、土地の地底の光を封印してる。」

その日、伴侶が受信したメールに不可解な点がありありました。もしかしたらサインなのかもしれないと直感しました。サインだとするとメールの差出人の名前にヒントがあり「紀州の大きな川の源流」と読み取れます。紀州(和歌山県)の大きな川は、確か「吉野川」と記憶していました。

320px-Odaigahara_Masakigahara.jpg

ネットで調べてみると、やはりそうで「紀の川(吉野川)」でした。紀の川(きのかわ)は、奈良県から和歌山県へと流れ紀伊水道に注ぐ一級水系の本流です。奈良県内では奈良県南部の地名「吉野」に因み「吉野川(よしのがわ)」と呼ばれます。

しかし、河川名を案内する標識などには水系名である「紀の川」が併記されます。紀の川の源流は、奈良県の大台ケ原山(おおだいがはらやま)でした。大台ヶ原山は奈良県と三重県の県境にある標高1695.1mの山です。グーグルマップで大台ヶ原山を調べると「大台教会」が表示されました(大台ヶ原山 - Google マップ)。

「大台ケ原山の山頂にどうして、こんな教会があるのだろう」と思いました。しばらく内観すると「紀の川を闇にするために、教会を置いて松取りすることで源流の山を封じた」と感じました。源流の山を闇にすることで川も闇になります。

川が闇になると川の流域の土地に闇が広がります。土地を封印するためには、川の源流のある山を闇にすることが重要なのです。川の源流となる山も地上ではなく山の内部の地底から水が湧いてきます。山の内部の光の地底から水が生まれ、川が流れるのです。

大台教会を調べていくと《酒の一滴は大河の一滴》を見つけました。「大台教会」の記事には大台ヶ原山の自然の画像と共に貴重な情報が記載されていました。「奈良県吉野郡上北山村・川上村と、三重県多気郡大台町旧宮川村にまたがる「大台ケ原」は頂上が平坦な台地状の山々から構成されています。

有数な多雨地帯でトウヒ、ブナの原生林の残る貴重な森。そして冬は閉ざされるこの森の中に佇むのが大台教会です。「教会」という言葉はキリスト教に限らず、神道や仏教などの伝統宗教や新宗教にも広く使われています。」「「大台教会山の家」「福寿大台ケ原教会」とも呼ばれ、御神体を持たず自然賛美を教義とします。

1891年(明治24年)古川嵩が入山し修業を行う。1899年(明治32年)福寿大台教会開設。教会本殿、附属建物完成。総工費58,000円は浄財による。神道十三派の一派である神習教分教会となる。1928年牛石ヶ原に神武天皇像建立。1944年教会に陸軍分遣隊駐屯」とありました。

大台ケ原の山頂の教会に陸軍分遣隊駐屯したというのです。過去の調査やワークから、戦時中の日本軍は、日本本土や中国・満州、朝鮮半島、樺太などの占領地にて、地下壕を建設して松取りを行っていたと分かっています。さらに、離島や演習林でも松取りが行われて来たと見ています。

松取りの場所としての今回の山頂の教会は初めてでした。いかに人目につかない場所で、秘密裏に松取りが行われて来たのかが分かります。《実利行者の足跡めぐり》には、修験道の行者である「林実利」の大台ケ原山での修業と北海道の名付け親である探検家の「松浦武四郎」の調査についても記されていました。

実利行者のように、山で修業する修験道の行者は、人と山の動物の松取りをしていたと感じます。自分の肉体の生命力と精神の霊力を向上させるための松果体摂取です。松取りの証拠を消すために護摩炊きを行うのだと思います。既述のサイトには、松浦武四郎の筆による護摩修行のスケッチが掲載されています。

松浦武四郎については《医療の闇の仕組を作った松浦武四郎》に記されています。今思うと松浦武四郎は、医療を隠れ蓑にして日本の松取りの闇の仕組を作った工作員だったと感じます。表の松浦武四郎は探検家としての英雄ですが、裏では暗黒の闇の仕事をしていたのです。

昔は松果体収穫の中核は宗教施設でしたが、近代は医療施設に移って行ったと感じます。《実利行者の足跡めぐり》に掲載されている大台ケ原の画像の中で「御手洗池」が気になりました。御手洗池の手前には、「八大龍王碑」と「実利行者碑」が置かれていました。

池だとすると松取りの処理が行われた場所と感じました。御手洗池に光を降ろすと「真っ赤になった。裏インド」と伝えられました。赤は血の色であり、やはり松取りと関係ある場所のようでした。神習教分教会である「大台教会」に光を降ろすと「松取り」と伝えられました。

大台ケ原山を封じていた闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「いいです」と伴侶が言いました。松取りをすることで山の内部の地底が闇に変えられるのです。自然の光を封印するための松取りの闇です。修験道の行者である「林実利」と「神習教」について調べていきました。

林実利 - Wikipedia》によると、林実利(はやしじつかが)は、幕末から明治時代中期にかけて活躍し、多くの信者に信仰された、金峯山修験本宗の修験道の行者です。1843年、苗木藩領であった美濃国恵那郡坂下村の高部(現岐阜県中津川市坂下町)の百姓の子として生まれます。成長後、御嶽講(御嶽教)に入信します。

木曽の御嶽山の黒沢口登山道の千本松で行なわれる御嶽教のお座立て(託宣儀礼)に参加するために登山した際に、龍神より託宣を受けます。1870年〜74年、実利行者は大台ヶ原の牛石付近に小屋をつくり、そこを拠点として修行に励みます。

また深仙宿、大台ヶ原、怒田宿、那智山での厳しい修行は通算16年間に及びます。庶民のみならず宮家からも信仰されるようになり、有栖川宮より直々に役小角に次ぐ優れた山伏を意味する、「大峯山二代行者実利師」という名号を賜りました。

1884年)4月21日、那智滝の絶頂から座禅を組んだまま滝壺に捨身入定しました。享年42でした。入定して数日後に滝壺より引き上げられ、座禅姿のままであったといいます。《神習教 - Wikipedia》によれば、神習教は、美作国(現在の岡山県真庭市蒜山上福田)出身の神道家・芳村正秉(よしむらまさもち)が創始者です。

芳村正秉が1857年に立教し明治初期の神官教導職分離の時期に組織した神道教派で教派神道十三派の一つです。東京都世田谷区に法人の教庁を置きます。天照大御神をはじめとして神道古典にある天津神、国津神を祀り、古事記、日本書紀ほかを所依の教典とします。

当時の神社や神道のあり方に対して問題意識を持っていた正秉が本来の神道の姿に復することを目的として形成され、神代より脈々と流れる伝統的な神道的価値観を教義の柱としています。ウィキペディアには、「大政奉還後、西郷隆盛の紹介により神祇官(後に教部省)に奉職。

1873年1月27日には伊勢神宮に禰宜(ねぎ)として奉職」「西郷の紹介により明治天皇に非公式に面会し幾度となく皇居に出向いている」と記されています。芳村正秉と西郷隆盛は松利権で繋がり、深い関係にあったと感じます。《西郷隆盛の生誕地から繋がる松利権に関わる支配層の著名人》に書きましたが、西郷隆盛は松利権を有していました。

西郷隆盛が生まれた薩摩藩の薩摩国鹿児島城下加治屋町山之口馬場は、大久保利通、東郷平八郎、大山巌、山本権兵衛など多数の著名人を輩出した地であり、松利権の支配を示唆しています。神習教の初代管長は芳村正秉(1839年-1915年)であり、現在の三世管長(初代教主)は、桜神宮宮司の芳村正コ(1964年-)です。

金峯山修験本宗修験道の行者・林実利と神習教の初代管長、三世管長に、それぞれに闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「松取りの修験」「松取り」「ITヤクザ」と伝えられました。松果体利権の闇が統合して、封じられていた自然の光が解放されることを願っています。

【関連記事】
稲尾岳の原生林と水の光を封印する照葉樹の森稲尾岳ビジターセンター"
山梨 清里開拓の父ポール・ラッシュと八ヶ岳の麓のキリスト教実験施設 〜巡礼の旅(639)〜
和歌山 南方熊楠の松取りによる鎮守の森・神島の封印とロスチャイルド工作員のグレタ 〜巡礼の旅(706)〜
posted by 地球の子 at 21:46| 奈良県 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする