2023年08月18日

富山 理化学研究所の設立者・高峰譲吉から繋がるアドレノクロムの闇の仕組と黒部ダム・発電所に隠された地下施設 〜巡礼の旅(730)〜

「理化学研究所の設立者でアドレナリンを発見した高峰譲吉はアドレノクロムもつくったと見ている。米国で巨万の富を得た高峰譲吉は、第一三共の初代社長でもある。理化学研究所の設立者の渋沢栄一と共に支配層・八咫烏の松システムを構築した重要人物と言える。」

柏崎刈羽原発に田中角栄元首相の関係から、渋沢栄一が設立者になっている理化学研究所について、松システムの観点から調査とワークを行う必要性を感じました。国立研究開発法人理化学研究所(理研)は、埼玉県和光市に本部を持つ国立研究開発法人です。

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アジア最初の基礎科学総合研究所として、渋沢栄一らによって1917年に設立されました。物理学、化学、工学、生物学、医科学など基礎研究から応用研究まで行う日本国内では唯一の自然科学系総合研究所です。明治維新後、若い科学者を留学させて、アジア最初の基礎科学総合研究所である理化学研究所として設立されました。

1913年(大正2年)、高峰譲吉(たかみねじょうきち)らが「国民科学研究所」構想を唱え、渋沢栄一らがその構想について議論を行いました。高峰譲吉が気になりました。高峰譲吉(1854年-1922年)は、日本の科学者、実業家で、名誉工学博士・薬学博士です。

タカジアスターゼ、アドレナリンを発見し、アメリカ合衆国で巨万の財を成しました。製薬会社・三共の創業者でもあります。1854年に越中国高岡(現:富山県高岡市)の山町筋と呼ばれる御馬出町(おんまだしまち)の漢方医高峰精一の長男として生まれます。

翌年、父の学問所「壮猶館(そうゆうかん)」の勤務のため加賀国金沢城下の梅本町(現:石川県金沢市大手町)へ移住します。1865年、12歳で加賀藩から選ばれて長崎に留学し海外の科学に触れたのを最初に、1868年(明治元年)、京都の兵学塾、大阪の緒方塾(適塾)に入学します。

翌年16歳のとき大阪医学校、大阪舎密(せいみ)学校に学びます。工部大学校(東京大学工学部)応用化学科を首席で卒業します。1880年からイギリスのグラスゴー大学への3年間の留学を経て、農商務省に入省します。1884年にアメリカ合衆国ニューオリンズで開かれた万国工業博覧会に事務官として派遣されます。

そこで出会ったキャロライン・ヒッチと婚約し、1887年に結婚、1890年に渡米しアメリカへ永住することになります。高峰が最初に居住したシカゴは当時アメリカでも有数の肉製品の産地で多数の食肉処理場が存在していました。

この時廃棄される家畜の内臓物を用いてアドレナリンの抽出研究をはじめ、1900年に結晶抽出に成功し、世界で初めてホルモンを抽出した例となりました。アドレナリンはアナフィラキーショック治療や昇圧剤、止血剤として用いられ、医学の発展に大きく貢献しました。

アドレナリンは、アドレノクロムの前駆体であることは知っていました。化学的には、アドレナリンを酸化するとアドレノクロムになります。アドレノクロムは若返りの高級麻薬とされます。アドレナリンは、牛などの動物の副腎から抽出精製されます。

ネットでアドレノクロムの製法を検索していくと《いつかどこかで》を見つけました。英文サイト「UKALAKURT」の和訳がベースですが、現実的なアドレノクロムの採取や製法についての情報が書かれています。「アドレノクロムの品質と強さは、それが収穫された人の年齢と死の時に放出されるアドレナリンの量に依存する」

「9歳未満の子供の拷問と恐怖によって、最高品質のアドレノクロムが得られることが知られている」「犠牲者が殺された後、化学物質は首の背後から吸い取られます」「世界的に有名な3Mの会社がアドレノクロム作成の特許を取得していることがわかった 。この特許も失効している。とても興味深いです」とあります。

ネットでよく見るアドレノクロム製品は、褐色のアンプル瓶に入った液体(1g・約22万円)です。このアンプルの液体製品は、最高級のアドレノクロムです。ネット情報では、子供を虐待して眼球からアドレノクロムを採取するといいます。それとは別に汎用製品として錠剤があり、アドレナリンの酸化によって生成されるアドレノクロムだと見ています。

アドレノクロムの前駆体であるホルモンとしてのアドレナリンを発見して、製法の特許を取得した高峰譲吉は、技術面で松システムの構築に寄与した重要人物だと感じます。また、《隠された加賀の松果体システムが表に出て最後になる》には、松システムの中核が加賀藩(石川県)であるとされ、まさしく三共の初代社長である高峰譲吉は該当します。

理化学研究所の構想者・創設者の高峰譲吉、現理事長の松本紘(1942年-)に光を降ろすと「途中でトカゲが入った。松喰い」「上級トカゲ。松」と伴侶が伝えて来ました。理化学研究所はアドレノクロムの源流だと感じます。高峰譲吉は、1919年に東洋アルミナムを設立します。

アメリカの会社のアルミニウム製造技術と原料を使い、富山県黒部川の電源開発による電気を利用した日本初のアルミニウム製造事業です。アルミ精錬に必要な電源確保のため黒部川に発電所を建設することになり、その資材輸送手段として鉄道建設も計画し黒部鉄道を設立しました。

また宇奈月温泉(うなづきおんせん)の礎となった黒部温泉株式会社や、黒部水力株式会社を立ち上げています。宇奈月温泉は、富山県黒部市にある温泉です。黒部川の電源開発を背景として1923年(大正12年)に開湯された温泉地です。

黒部川の渓谷沿いなどに旅館や保養所が立ち並び、峡谷美を愛でる黒部峡谷鉄道のトロッコ観光の拠点でもあります。全国的にも珍しい7kmにも及ぶ引湯管を使った引湯です。宇奈月温泉wikiの東洋アルミナムには、「この地を訪れたことがある昭和天皇の御製碑や、与謝野鉄幹、与謝野晶子、宮柊二(みやしゅうじ)らの歌碑がある」とあります。

昭和天皇や工作員の作家が来ていることから、感覚的には、松果体摂取の隠れ家だったと見ています。宇奈月温泉のWikipediaに、東洋アルミナムの沿革情報がありました。「1917年(大正6年)7月 - 高峰譲吉や三共製薬・塩原又策等が日本最初のアルミ精錬所を計画した。

黒部川で電源開発を進めるため、東大土木工学科出身の逓信省電気局技師・山田胖(やまだ ゆたか)を引き抜き、創立計画に当たらせた。彼は降雪期である12月に、桃原(現在の宇奈月)から黒薙まで調査に赴いた。1919年(大正8年)12月 - 三共製薬本社内に東洋アルミナム株式会社を正式に設立する。

代表取締役は高峰譲吉と塩原又策である」と記されています。東洋アルミナムの設立に、高峰譲吉の他に、三共製薬、逓信省が関わっていることがポイントです。宇奈月温泉wikiの黒部温泉会社には、「三共の塩原又策は、東洋アルミナムの全株式を日本電力(現関西電力の前身)に譲渡。

東洋アルミナムの社長には日本電力の山岡順太郎が就任した。1923年(大正12年)- 黒部鉄道(現・富山地方鉄道)により資材運搬を主な目的として旅客も乗せる、当時の三日市町の三日市駅と宇奈月を結ぶ鉄道路線が開通した。これにより、温泉に進出しようとする者が出始めた。

1925年(大正14年) - 日本電力が黒部水力株式会社を併合した。1956年(昭和31年)7月 - 関西電力黒部ダムと黒部川第四発電所の建設が始まる」と記されています。東洋アルミナム創設者の塩原又策(1877-1955年:三共創業者)、黒部水力社長の山岡順太郎(1866-1928年:日本電力・加賀生まれ)に御魂が上がるよう意図して光を降ろしました。

「工作員」「ワニ」と伝えられました。明らかに松果体収穫の工作だったと感じます。また、富山地方鉄道(黒部鉄道の後進)の創業者・佐伯宗義(1894-1981年:衆議院議員・雄山神社の神官家)と現社長・辻川徹に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「金」「松。ペド」と伝えられました。

黒部ダムは、富山県東部の立山町を流れる黒部川水系の黒部川に建設された水力発電専用のダムです。1956年(昭和31年)着工、太田垣士郎指揮の下、171人の殉職者を出しました。
7年の歳月をかけて、1961年1月に送電を開始し、1963年(昭和38年)に完成しました。

当時の関電社長・太田垣士郎は、資本金の3倍(最終的に5倍)の総工費で臨んだとされます。黒部川第四発電所は、富山県黒部市の黒部川上流部にある関西電力の水力発電所です。黒四発電所、あるいは単に黒四と通称され黒部ダムから水を引いて発電を行っています。

当時の関電社長・太田垣士郎(1894-1964年:京阪神急行電鉄社長)に光を降ろすと「レプ」と伝えられました。高峰譲吉らによって設立された東洋アルミナムは、関西電力黒部ダムと黒部川第四発電所に繋がっています。

これまでのワークから日本の原発、水力発電所の地下は、アドレノクロム工場があると見ています。その真実が工作によって隠蔽されてきました。北アルプスの立山は、日本の重要な光の場所です。古くから雄山神社が置かれ、密かに松果体収穫が行われてきました。

水の源流の場所である光を封印するための闇の仕組であり、現在の黒部ダム、黒四発電所に引継がれています。黒部ダム、黒四発電所の地下を意図して光を降ろすと「いいです」と伝えられました。隠された闇としての松の仕組が終わることを願っています。

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posted by 地球の子 at 16:33| 富山県 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする