2023年09月11日

北海道 江別市の特産品・煉瓦に隠された松果体収穫の闇と酪農学園大学 〜巡礼の旅(732)〜

「北海道江別市の特産品である煉瓦は、火を使うことで松取りの闇が隠されている。煉瓦造りの際に松取り後の遺体を焼却することで証拠隠滅工作が成された。江別市は千歳川や石狩川が流れる水の場所。水の場所という光の地を闇で封じるために煉瓦がつくられてきた。」

知人が急に具合が悪くなり、北海道江別市にある病院に入院しました。「江別市」のワードがヒントとして来ていました。江別市は、伴侶が昔、住んでいた家があった場所です。江別市には、石狩川に合流する夕張川、千歳川、豊平川などの河川があり、大事な水の場所だと分かっていました。

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過去において江別市については、《野幌森林公園の地を封印する役割としての江別キリスト村記念碑》などでワークを行っていました。また、江別市には、北海道遺産になっている「江別のれんが」があります。煉瓦(れんが)作りには「火」を使います。

「火」を使って煉瓦を作ることは、裏で「松取り(松果体収穫)」が行われて来た客観的な証となります。河川のある水の地という光を封印するために、煉瓦作りの火が置かれたと感じています。今回、知人の入院をきっかけに、医療機関と煉瓦工場を主に江別市のワークを行うことにしました。

まず、知人が入院した病院をネットとグーグルマップで調べました。知人が入院した病院は、1940年代に江別市に診療所を開設したことから始まった歴史ある病院でした。その病院の院長に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「ワニ」と伝えられました。

ワニがいることは「松取り」が関係していることを示唆しています。病院棟にも闇の解除を意図して光を降ろすと「院長の一族は松取りに貢献して土地を所有した」と伝えられました。私は、院長一族が工作員である可能性を感じました。幕末維新以降の日本での松取りは、戦地、難民キャンプ、医療施設になっています。

現在は、その殆どが医療施設や福祉施設だと感じています。江別市で一番大きな医療施設だと思われる「江別市立病院」を選びました。江別市立病院は、北海道江別市にある病院(市区町村立病院)です。1951年(昭和26年)に、「江別町立病院」として開院しました。

国立札幌病院(現在の国立病院機構北海道がんセンター)の診療所を江別町へ移管したことに伴っていました。1952年(昭和27年)に、国民健康保険事業の直営診療病院となり、1954年(昭和29年)に市制施行に伴い「市立江別国民健康保険病院」と改称しました。

江別市立病院は、タレントの大泉洋が生まれた病院です。江別市立病院の院長と病院棟に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「ワニ」「闇」と伝えられました。国立病院機構北海道がんセンターの診療所として置かれたことを考慮しても、古くから松取りが行われて来たと感じます。

江別のれんがは、北海道江別市で生産されている煉瓦(れんが)で、野幌地区がその中心となってきたため「野幌れんが」としても知られます。江別産の煉瓦は、市内ほか周辺地域の土壌に多く含まれる野幌粘土を原材料としており、褐色及び赤い色が特徴です。

鉄道や道路のトンネル・橋などのインフラ、サイロ、学校、民家、駅舎や倉庫建物などに用いられ、北海道の近代化に貢献しました。現在も市内には江別市「歴史的れんが建造物保存活用事業」の一環として、400棟を越える煉瓦造りの建造物が保存されています。

尚、江別では現在でも3か所の煉瓦工場が稼働し、国内の20パーセント以上のシェアを占める日本有数の煉瓦生産地となっています。1898年には北海道炭礦鉄道が野幌煉瓦工場を開設して、後に札幌商工会議所会頭を務める久保兵太郎(作家久保栄の父)が経営者となります。

以降、煉瓦工場の進出が相次いだ江別は、一躍煉瓦の町として栄えることとなりました。「江別のれんが」のワーク対象として「旧ヒダ工場」と「米沢煉瓦」をピックアップしました。旧ヒダ工場は、1998年(平成10年)に自主廃業した窯業会社「株式会社ヒダ」の工場跡です。

当時は、江別市内に残されていた古くからある窯業工場の1つでした。米沢煉瓦は、1939年(昭和14年)に設立した煉瓦製造会社です。旧ヒダ工場、米沢煉瓦のトップと工場に闇の解除を意図して光を降ろすと「入りました」「松喰い」「昔やっていた」と伝えられました。

「江別のれんが」のウィキペディアには、『江別市内で現在稼動している工場は、米沢煉瓦(昭和14年4月操業)、丸二北海煉瓦(大正10年4月操業) 、昭和窯業(昭和15年操業)の3社です。最盛期は昭和25年の15社で、明治24年から延べ30社存在した』とあります。江別の地がいかに松取りの闇に覆われていたのかが分かります。

煉瓦(れんが)は、粘土や頁岩、泥を型に入れ、窯で焼き固めて、あるいは圧縮して作られる建築材料です。通常は赤茶色で直方体をしています。焼成レンガは原料中の鉄分量および焼成時の酸素量によって色が変わります。日本においては一般的な製法を用いた場合、赤褐色となり、耐火レンガは炉材にも使われます。

煉瓦が建築材料として使用されるようになったのはメソポタミア文明の時代からです。チグリス川、ユーフラテス川にわたる広大な範囲で煉瓦建築が発展していきました。紀元前4000年からの約1000年間は、乾燥させただけの日干し煉瓦が使用されていました。

紀元前3000年頃からは、焼成煉瓦が使用され始め、この頃には大型の建造物の外壁の仕上げに焼成煉瓦が使われています。《煉瓦の歴史について》によると、国産初の赤レンガは長崎が起源となります。1857年(安政4年)に起工された長崎飽ノ浦鎔鉄所建設のためにオランダ人海軍機関将校ハー・ハルデスの指示で地元の瓦屋が焼きました。

この長崎鎔鉄所はわが国初の西洋式の工場建築で、れんが造の外壁や洋風トラス(屋根の小屋組を構成する三角形の骨組)の導入など近代建築史上に残る著名な建築です。北海道は明治維新後になって本格的に人の手が入った新世界です。1872年(明治5年)に開拓使によって函館湾岸に茂辺地煉瓦化石製造所を開設しました。

ウィキペディアには、「日本で最初期に造られた煉瓦建築は幕末の反射炉である」と記されています。反射炉は、私の過去世と深く関わっているので、煉瓦と結びついたと感じます。オランダ人海軍機関将校ハー・ハルデス(ヘンドリック・ハルデス:1815年-1871年)の御魂が上がるよう光を降ろしました。

「ロスチャ」と伴侶が伝えて来ました。国産の煉瓦作りを指揮したのは、やはりロスチャイルドの工作員でした。長崎製鉄所は、江戸時代末期(幕末)に作られた製鉄と船舶の修理・建造を行う工場です。1861年の創設時は「長崎鎔鉄所」という名でした。1863年、神戸に海軍操練所造艦局が新設され、長崎製鉄所はその所属となりました。

明治維新後、長崎造船所と改称しました。その後、岩崎弥太郎に払い下げられて、三菱重工業長崎造船所へと発展しました。グーグルマップで長崎製鉄所跡を探すと、住所は長崎県長崎市飽の浦町1−1でした。光を降ろすと「いいです」と伝えられました。

長崎に国内初の製鉄所が出来たのは、長崎が水の地であるからです。松取り(松果体収穫)の証拠隠滅のための闇の火は、煉瓦と共に長崎から函館、江別にもたらされたことが分かります。江別市で気になったのが「酪農学園大学」です。酪農学園大学は、1960年に設置された北海道江別市文京台緑町に本部を置く私立大学です。

1933年に創設された北海道酪農義塾を起源とします。創立者は、日本の酪農業の発展と北海道の開発に貢献し「日本酪農の父」や「北海道開拓の父」と呼ばれた黒澤酉蔵(とりぞう)です。単独の私立大学のものとしては日本最大のキャンパスを持ちます。

キリスト教を建学の理念の一つとしている大学で、福音書の神を愛し、隣人を愛すことを最も重要な教えとするイエス・キリストの言葉に「土を愛する」を加えた三愛精神を掲げています。また、酪農学園大学には、もうひとつの建学の精神、健やかな大地が健康な人々を育む「健土健民」の理念があります。

このキリスト教的なふたつの精神に、「土を愛する」生き方を融合させたこの大学の特質を明瞭に表しています。松取りの起源は、原始キリスト教です。原始キリスト教の松取りの闇は、仏教や神道など全ての宗教に引継がれており、現代のキリスト教の裏にも松取りの闇があります。

黒澤酉蔵(1885年-1982年)は、茨城県出身の実業家、酪農家、政治家、教育者、環境運動家です。衆議院議員で北海道製酪販売組合連合会(現・雪印メグミルク)の設立者です。1909年(明治42年)に日本メソジスト札幌教会で杉原成義牧師より受洗しました。酪農学園大学の設立者・黒澤酉蔵の御魂が上がるよう意図して光を降ろしました。

「黒い人。松喰い。指名されてやっていた」と伴侶が伝えて来ました。現学長・堂地修とキャンパスに闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「金。エゴ。支配」「地下に入りました」と伝えられました。酪農学園大学は、札幌市の大事な光の場所である「野幌森林公園」の北側の端に位置しています。

野幌森林公園の自然の光を封じるために裏の松取りの闇として置かれたのだと感じます。江別市の地は、開拓時代には屯田兵村もあり、屯田兵制度によっても暗闇にされて来たことが過去のワークで分かっています。北海道江別の地が本来の光の地に戻ることを願っています。

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ラベル:江別市 煉瓦
posted by 地球の子 at 21:41| 北海道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする