2024年02月10日

静岡 川端康成ゆかりの旅館・湯本館と繋がる緒明圭造の生家のある天城湯ヶ島 〜巡礼の旅(743)〜

「造船・海運業で巨額な富を得ていた緒明圭造の出自は天城湯ヶ島の足立家。天城湯ヶ島にはノーベル文学賞作家の川端康成の所縁の旅館・湯本館がある。緒明圭造の生家の足立家と川端康成は支配層の松工作で繋がっていたと推測する。天城湯ヶ島に支配層・八咫烏の工作拠点があったと感じる。」

朝鮮李王朝第26代皇帝高宗の次男・李垠が別邸として利用していた三島市の楽寿園にある楽寿館(旧小松宮邸)を当時30万円(現・約1.3億円)で購入したのが造船・海運の雄の緒明圭三でした。巨額な富を得ていた緒明圭造を輩出した緒明家は、初代・緒明嘉吉、二代目・緒明菊三郎(緒明嘉吉の子)、三代目・緒明圭造(緒明菊三郎の娘婿)の流れできています。

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三島楽寿園を寄付した緒明の別荘》には、『緒明三代目(緒明圭造)は伊豆湯ヶ島の旧家の足立家の4男で明治15年東京に出て今の早稲田で英語、数学、漢学、工学、特に造船に興味があった。戸田村出身の緒明菊三朗が洋式造船で知られ緒明造船所に入り二代目菊三朗の長女の婿になりました。湯ヶ島の湯本館の近くに別荘があります。

ここ(湯本館)は(川端康成の)伊豆の踊り子の出発点です。足立家の三男は河津の黒田家に婿に入り、後に衆議議員になり北海道のルスツに行き開拓をして今でもそこの人達との交流もあります。河津町役場の前に銅像があります』と記されています。注目したのは、緒明圭造は、川端康成の所縁の旅館「湯本館」に別荘を有していたことです。

川端康成は、ノーベル文学賞を受賞した有名な作家であり、支配層の特級工作員です。天城湯ヶ島の湯本館は、三島楽寿園の楽寿館(旧小松宮邸)と同様に支配層の人物が松果体収穫を行っていた場所だと想像しています。湯本館の地図をグーグルマップで観ると狩野川の側にあります。天城山には、常連の滝などの水の場所もあります。

狩野川の源流が天城山系でもあるのです。それ故に、天城山の光を封印するために松果体収穫の隠れ家が置かれたと見ています。川端康成については、前々から気になっていた人物であり、別途、より深く追求する必要性を感じています。川端康成の名作「伊豆の踊子」は有名ですが、タイトルにつけられた「踊子(おどりこ)」には隠語が使われていると推測しています。

『おどるポンポコリン』の歌詞に秘められた世の中の仕組》には、アニメ「ちびまる子ちゃん」の作家のさくらももこが作詞した歌の「おどるポンポコリン」には、一般大衆を支配・コントロールする支配層の手法が隠語を用いて込められていることを記しています。きっかけは、ジャニーズ事務所の副社長のメリー喜多川の言葉でした。

メリー喜多川が言ったとされる「SMAPは踊れないじゃない」からでした。「踊る(おどる)」「踊り(おどり)」を隠語として用いて、多くの人々が言っている歌の歌詞や小説など様々なものに世の中の支配層の仕組の真実のヒントが置かれていると推察しています。そもそも言葉としての「踊る」は、「踊らされる」のような使い方をされます。

「踊らされる」とは簡単に言えば「操られる」「騙される」というニュアンスです。一般大衆が操られて騙される元になるのが、性風俗の闇だと感じます。折しも、吉本興業のドン・松本人志やプロサッカー選手の伊東純也の性加害疑惑のニュースが流れており、支配層の底辺にあった闇が表面化してきていると見ています。

伊豆湯ヶ島の旧家の足立家の4男が緒明三代目の緒明圭造です。《三島楽寿園を寄付した緒明の別荘》には、『足立家の三男は河津の黒田家に婿に入り、後に衆議議員になり北海道のルスツに行き開拓をして今でもそこの人達との交流もあります。河津町役場の前に銅像があります』と記されています。足立家の三男で黒田家に婿入りしたのが「黒田重兵衛」です。

黒田重兵衛の経歴はwikiに記載されています。『黒田重兵衛(1863年-1952年)は、明治から昭和時代前期の政治家、銀行家。衆議院議員(1期)。前名は孝造。[経歴]伊豆国田方郡、のちの静岡県田方郡上狩野村(天城湯ケ島町を経て現伊豆市)に生まれ、のち静岡県賀茂郡下河津村(現河津町)に住む。足立清次郎の三男として生まれた。

先代重兵衛の養子となり、1895年(明治28年)家督を相続し前名を改めた。下河津村農会長、同村会議員、賀茂郡会議員、静岡地方森林会議員、静岡県会議員を歴任したほか、静岡農工銀行監査役、下田銀行(静岡銀行の前身行のひとつ)頭取、下田自動車会社取締役を務めた。1924年(大正13年)5月の第15回衆議院議員総選挙では静岡県第10区から憲政会所属で出馬し当選。

衆議院議員を1期務めた。[親族]娘婿:中井光次(二女みち夫、政治家) 仁田大八郎(妻はち甥、実業家)』。黒田重兵衛は、北海道のルスツに行き開拓をしていました。北海道開拓は、開拓を隠れ蓑にして支配層の裏の金儲けとなる松取りだと捉えています。松取りの犠牲になったのは、アイヌ民族と開拓民です。開拓という肉体労働の裏で松取りが成されていました。

北海道の開拓時代に繋がる創価学会の歴史》にありますが、創価学会や屯田兵は、支配層の裏の金儲けである松取りに深く関係しています。宗教団体の創価学会や屯田兵という軍隊を隠れ蓑にして裏で人命を金に換える支配層の工作が行われてきました。松取りの闇は、人の魂の光を封印するのと同時に自然の光を封印するのです。

「北海道留寿都村・黒田重兵衛」でネット検索すると「重兵衛沼」がヒットしました。《重兵衛沼について》には、『静岡県賀茂郡河津村の大地主・資産家であった黒田重兵衛は、国有未開地の貸付を受けて、今の黒田地区の開拓をスタートさせました。そして明治34年、黒田農場を開設させました。

しかし、近くには熊の巣や大密林が拡がり開拓は困難を極めました。昭和14年にはその努力がようやく実り、農場解放にこぎつけました。ジュウベエヌマは黒田地区にあることから黒田重兵衛さんが名前の由来になっています』と記されています。《「重兵衛沼」訪問》には、秘境の沼である重兵衛沼の画像が掲載されています。

グーグルマップで重兵衛沼を確認すると、羊蹄山の南東方向約20kmに位置します。北海道開拓の当時、支配層は暗闇する役割でした。開拓民やアイヌを労働者に使って原野を開拓して農場や農作地に変えていきましたが、その裏で人命を金に換える松取りを秘密裏に行っていました。日本にとって大きな光の地である北海道を封じるためでした。

足立清次朗の三男で、静岡銀行の前身の下田銀行の頭取に就任し北海道留寿都村の開拓者でもある黒田重兵衛(孝造)の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「半島工作員。汚くなった」と伝えられました。黒田重兵衛は、支配層・八咫烏の胴元工作組織の統一教会が背後にある工作員の役割だったと感じます。

黒田重兵衛-wikiの親族の欄に記載されていた、中井光次(なかいみつじ・黒田重兵衛の娘婿)と仁田大八郎(にっただいはちろう・黒田重兵衛の妻はち甥、実業家)が気になり、追究することにしました。中井光次(黒田重兵衛の娘婿)の経歴はwikiに記載されています。『中井光次(1892年-1968年)は、静岡県出身の政治家、内務官僚。大阪市長(第10・12代)。

[経歴]大阪府立市岡中学校6期、1917年に東京帝国大学卒業。内務省に勤務し、各府県の内務部長・警察部長を歴任。1936年4月1日から9月2日まで島根県知事(官選第32代)、同年9月3月から1945年9月7日まで大阪市助役を務める。1945年9月8日から1946年12月13日まで第10代大阪市長を務める。1947年、第1回参議院議員通常選挙で当選(大阪府選出)、民主党、国民民主党に所属。

1951年3月31日まで務めた。その後第12代(公選2代目)大阪市長に当選(1951年4月25日 - 1963年3月23日)。その間、全国市長会の第5代会長(1952年11月20日 - 1954年6月18日)も務めた。1963年、大阪市助役及び市長に就任して公共の福祉に奉仕して実績を挙げたとして藍綬褒章。1965年(昭和40年)春の叙勲で勲二等瑞宝章受章(勲四等からの昇叙)。

1968年4月9日死去、75歳。死没日をもって従四位から正四位に叙される。没後、市葬が行われた』。中井光次は、静岡県出身の内務官僚で、島根県知事、大阪市長、参議院議員を務めた政治家であり、支配層の松利権に貢献してきたことが推測されます。その証が、藍綬褒章や勲二等瑞宝章の叙勲です。

支配層の松利権に貢献した工作員には、勲章が授与されるのです。暗闇の時代には、大衆を注目させて惹きつけるためのお墨付きの看板になりますが、闇の時代が終わる時には、反対に闇の仕事をしていた証拠となり、ひっくり返ることになります。仁田大八郎(黒田重兵衛の妻はち甥、実業家)の経歴はwikiに記載されています。

『仁田大八郎(1871年-1945年)は、明治から昭和時代前期の静岡県田方郡で活躍した実業家、政治家。[概要]仁田大八郎の実家は、源頼朝の鎌倉幕府草創に貢献した武将仁田忠常を遠祖とする名家の三十七代目でもある。静岡中学校に学ぶ。1896年(明治29年)に生地でもある静岡県仁田村(現在の函南町)に仁田信用組合を設立して組合長に就きました。

また、1912年(大正元年)には静岡県信連会長、1923年(大正12年)産業組合中央会静岡支部会長を歴任した。1932年(昭和7年)には、帝国議会衆議院議員にもなった。1945年(昭和20年)3月1日死去。75歳。帝国大学卒。仁田大八郎は、「人のために尽くすことは無駄にはならない」という考えの下、私財を投じてきた。

田方農林学校の創立や伊豆箱根鉄道の前身となる駿豆電気株式会社の発起人となったり、伊豆仁田駅を開業させたりと、田方郡(主に函南町)地域の発展に尽力した人物でもある。その中で、特に顕著なのが、「丹那牛乳」ブランドの基礎となる酪農産業の発展へ寄与であると言われている。なお、衆議院議員時代に、鳩山一郎との親交を深め、度々自宅に招いた。

鳩山一郎が仁田大八郎にあてた「為仁田老兄」の書と二人が背広姿で撮った貴重な写真が現存する。[三島牛乳の時代]伊豆半島の乳業は、明治3年に修善寺の植田七郎が始めたとされる。明治21年に、仁田大八郎、丹那の川口秋平らが農馬の繁殖を目的とした伊豆産馬会社を設立し、搾乳業を開始。

明治29年に会社を解散し、岩崎勝治郎らが設立した函陽社がこれを引継ぐも、需要が安定せず、明治34年に廃業。大正6年に、三島市の東海加工品大場工場と森永製菓錦田工場がドライミルクの製造を始めたので、徐々に需要が安定してくるが、大正9年の(第一次世界大戦後の)戦後恐慌と大正12年の関東大震災で、大打撃を受ける。

そこで、仁田大八郎は乳価の値崩れ阻止のために、かねてから考えていた「伊豆畜産販売購買利用組合」を大正15年6月に設立し、組合長に選出された。大正15年12月15日には新たな販路である東京に牛乳を出荷した。尚、各地から集められた牛乳を大場の工場で殺菌冷却した後、大場駅から貨物で赤坂の工場まで運び瓶詰して、「三島牛乳」として販売していた。

ところが、組合は設立当初期待していた値崩れ阻止への効果はあったが、やはり需要が安定しなかったため、組合員の脱退が後を絶たなかった。そのために供給不足に陥り、米国企業のカーネーションミルクに身売り案が浮上、東洋製罐の高碕達之助に説得されて東洋製乳と定期契約を結んだ。

しかし、三島の森永製菓の方が買取が高かったので、やはり組合員の脱退が相次ぎ、組合の生産量が激減。東洋製乳との債務不履行を起こし昭和14年に森永製菓に組合を身売りして、「伊豆畜産販売購買利用組合」と「三島牛乳」は消滅した』。丹那牛乳の始まりとなる三島牛乳を製造販売していた仁田大八郎が関係していた東洋製罐の高碕達之助は重要人物です。

東洋製罐の創業者・高碕達之助が関与した電源開発・経産省・北方領土の背後にある裏の缶詰の松利権の闇》にありますが、高碕達之助は東洋製罐の創業者であり、支配層の松利権に深く関わっていました。日本の支配層・八咫烏は、松製品として裏の缶詰となる「松の缶詰」を製造販売していたと推察しています。

全国のマグロのツナ缶生産量全国1位・97%シェアを誇る静岡と清水港を有する徳川家の拠点の意味》にあるツナ缶の生産量全国No.1の静岡の地にある清水の港からツナ缶やお茶をカモフラージュとして松の缶詰を欧米に輸出していたと見ています。それ故に仁田大八郎は、支配層の松利権の裏の仕事を成していたと推測しています。

仁田大八郎が親交を深めた鳩山一郎は、内閣総理大臣に就いた人物で、八咫烏の鶴派の工作員でした。鳩山一郎の長男が政治家、大蔵官僚の鳩山威一郎です。父は第6代衆議院議長の鳩山和夫で、母方の父は右翼団体玄洋社出身の貴族院議員寺田栄です。孫には内閣総理大臣の鳩山由紀夫や文部大臣の鳩山邦夫がいます。

創価教育学支援会の創設メンバーから垣間見える闇利権を引継ぐ大物政治家》にありますが、創価学会の前身の創価教育学会の設立を支援した「創価教育学支援会」のメンバーの1人に鳩山一郎が名前を連ねていました。それは、八咫烏の鶴派の胴元工作組織である創価学会の工作員を意味しています。

黒田重兵衛の娘婿の中井光次(1892年-1968年:内務官僚・大阪市長)と黒田重兵衛の妻はちの甥で、鳩山一郎と親交が深かった仁田大八郎(1871年-1945年:実業家・政治家)の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「金」「サンカ」と伝えられました。サンカとは、松取りの現場工作員を意味します。

三島市の楽寿園にある楽寿館(旧小松宮邸)を購入した緒明家三代目の造船・海運の雄である緒明圭造は、天城山の伊豆湯ヶ島が源流となります。緒明圭造は、静岡県田方郡上狩野村(天城湯ケ島町を経て現伊豆市)の足立清次朗の四男に生まれました。この緒明圭造の緒明家は静岡銀行の大株主であり、静岡銀行を追うことにしました。

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posted by 地球の子 at 17:47| 静岡県 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする