2024年06月30日

静岡 三嶋大社の鳥居前町として栄え暗闇にされた湧水の地・三島市 〜巡礼の旅(752)〜

「富士山の伏流水が湧水として流れる三島市に三嶋大社がある。神社や寺院は古くから隠された支配層の松取り場所となってきた。松取りによって光の精霊を闇に変えて暗闇にされてきた。深い闇に変えられた三島の地を本来の姿に戻すために祈りを通じて光を降ろし人間のエゴ・金の闇を光に統合する必要があった。」

これまで、伊豆半島の中心の山である「天城山」を開くために調査とワークを行ってきました。その締めくくりとして、伊豆半島の中心都市で水の地である三島市と沼津市の2つの市のワークを行いました。伊豆の地を開くためには、江戸時代から栄えてきた、この2つの場所を闇の調査とワークは必要だと感じました。

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伊豆半島を縦断する下田街道は、三島から下田までの人の移動や物の運搬のための道路であり、昔から重要な道でもありました。三嶋大社の鳥居前町として栄えた三島の地は、伊豆半島の文化の中心でもありましたが、物質的に栄えた地は、エネルギー的に暗闇にされています。三島市の情報はwikiに記載されています。

『三島市は、静岡県東部にある市。伊豆半島の北端部に位置し、かつて伊豆国の国府が置かれた。[概要]三嶋大社の鳥居前町であり、三嶋大社や楽寿園を中心に市街地を形成する。市内各地で湧水が見られる点から、国土交通省選定の水の郷百選にも選ばれている。律令時代には伊豆国の国府が置かれ、伊豆府中とも呼ばれた。

江戸時代には東海道三島宿の宿場町となり、箱根峠越えの前後の休息地として賑わった。明治時代には、鉄路に対する意識の薄さから鉄道駅が置かれずに衰退した時期があったが、1934年(昭和9年)に現在の三島駅が開業した。1969年(昭和44年)に東海道新幹線の三島駅が開業した後は、東京駅・神奈川県方面への通勤・通学者が増加した。

[地名の由来]三嶋大明神(三嶋大社)がこの地に遷座したときから三島の地名が生まれた説。三嶋大明神(三嶋大社)が3つの洲(安志我良、珠流河、賀茂)の神であるとして、後に洲が嶋に改められ、三島の地名が生まれた説。菰池や小浜池などを水源とした清流に挟まれた土地が3つの島のように見えたため三島の地名がうまれた説。

[地理・地形]考古学の研究では約2900年前に富士山の東の斜面が崩壊して、御殿場付近へ堆積した岩屑なだれの堆積物は、洪水のたびに土石流となって、愛鷹山と箱根山との間の谷に運ばれ、三島溶岩流を覆って南へゆるやかに傾斜した台地の三島扇状地を作ったとされる。そのため、当市の台地は南へゆるやかに傾斜した扇状地となっている。

一方で、当市南部は田方平野で多い沖積層で形成されており、当市南部及び国道1号を挟む南北地域は液状化現象の危険性があると指摘されている。[歴史]〈古代から中世まで〉5世紀末頃:向山古墳が造られる。680年:伊豆国が駿河国から分離され、三島に伊豆国の国府が置かれる。750年(天平勝宝2年)頃:伊豆国分寺が建立される。

〈天正から江戸時代まで〉1590年(天正18年):豊臣秀吉が山中城を攻め落とす。1590年(天正18年):三島代官所が置かれる。江戸時代 - 江戸幕府の直轄地とされ、東海道の宿場町である三島宿が置かれる。1759年(宝暦9年):三島代官所が廃止され、韮山代官所に統合される。三島には陣屋が置かれる。

〈明治から第二次世界大戦まで〉1868年(明治元年):韮山県に属する。1871年(明治4年):韮山県が分割され、小田原県に属する。小田原県が足柄県となる。1876年(明治9年)4月18日:足柄県が分割され、以降は静岡県に属する。1886年(明治19年):君沢・田方郡衙が韮山から三島に移転。1892年(明治25年):小松宮が別邸楽寿園を建築。

1898年(明治31年):豆相鉄道(現在の伊豆箱根鉄道)が開業。当時の三島駅は現在の下土狩駅。1906年(明治39年):駿豆電気鉄道(三島広小路・沼津間路面電車、1963年廃止)が開業。1918年(大正7年)4月:中郷村の精錬工場による鉱毒公害で反対運動(北沢亜鉛鉱滓問題)。1919年(大正8年):野戦重砲兵第二連隊が、翌年には野戦重砲兵第三連隊が置かれる。

1923年(大正12年):関東大震災で被害。1929年(昭和4年):三島測候所開設。1934年(昭和9年):北伊豆地震で、広小路以東が被害。1934年(昭和9年)10月1日:丹那トンネルが開通し、東海道本線三島駅(二代目)が開業し旧三島駅は下土狩駅に改称。1934年(昭和9年)12月1日:伊豆箱根鉄道駿豆線が東海道線経路変更に伴い三島広小路-下土狩間を廃止し三島広小路-三島駅(二代目)開業。

1942年(昭和17年):三島に初めての空襲。〈第二次大戦後から平成まで〉1949年(昭和24年):国立遺伝学研究所が開設。1952年(昭和27年):市立公園楽寿園開園。1962年(昭和37年):三島広小路〜沼津間の路面電車廃止。1962年(昭和37年):新丹那トンネル開通。1962年(昭和37年):環境衛生都市宣言。

1966年(昭和41年):佐野美術館が開館。1969年(昭和44年):東海道新幹線三島駅開業。1970年(昭和45年):三島市民憲章制定。1983年(昭和58年):国から「水緑都市モデル地区」に指定される。1986年(昭和61年):人口10万人突破。1987年(昭和62年):三嶋大社の大改修。〈平成以降〉1995年(平成7年):国から「水の郷」に指定される。

1997年(平成9年):FMみしま・かんなみ(ボイス・キュー)放送開始。1998年(平成10年):地球温暖化防止都市宣言。2000年(平成12年):環境マネジメントシステムの国際標準規格であるISO 140001を三島市が取得。2001年(平成13年):市の鳥としてカワセミを選定する。2009年(平成21年):東駿河湾環状道路沼津岡宮IC - 三島塚原ICが開通。

2014年(平成26年):東駿河湾環状道路三島塚原IC - 函南塚本ICが開通。2019年(令和元年):泉町、一番町、本町、芝本町、広小路町が暴力団排除特別強化地域に指定』。湧水の場所には、古くから支配層の松利権(松取り)の闇が置かれてきました。松取りは支配層の裏の金儲けであり、昔から権力者に引継がれています。

湧水の光の地を本来の姿にするためには、この松取りの闇のエネルギーを解除・統合する必要があります。松利権を有していると見る三島市の支配層として、市長・市議会議長・観光協会会長・商工会議所会頭をワーク対象に選びました。三島市の現市長は、豊岡武士(とよおかたけし)です。経歴はwikiに記されています。

『豊岡武士(1943年-)は、静岡県三島市出身の政治家。静岡県三島市長(4期)。元静岡県議会議員(通算3期)。[来歴]三島市立東小学校、三島市立北中学校、静岡県立韮山高等学校卒業。1966年(昭和41年)3月、日本獣医畜産大学(現・日本獣医生命科学大学)卒業。同年4月、静岡県庁に入庁。

初代緊急防災支援室長を務めた。1998年(平成10年)4月から11月まで三島市役所に派遣され、企画調整部長を務めた。同年12月の三島市長選挙に落選後、翌1999年(平成11年)の静岡県議会議員選挙に出馬し初当選した。2003年(平成15年)に再選。県議時代は自由民主党に所属。

2006年(平成18年)の三島市長選挙に落選後、2007年(平成19年)の県議選に無所属で出馬し3回目の当選を果たす。2010年(平成22年)11月の三島市長選挙で初当選。12月20日、市長就任』。三島市長・豊岡武士に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「金春アヌンナキ」と伝えられました。

金春アヌンナキは、プレアデスがつくった重くて汚いエゴ・金の闇の役割の宇宙人です。視覚的に捉えるとヘビと龍の合いの子のような龍蛇族のエネルギー体です。多くの魂を持つ人が最後の暗闇として金春アヌンナキに憑依されて魂の光が封印されます。本来の姿の魂に蘇らせるには、この金春アヌンナキの解除・統合する必要があります。

2024年4月時点での三島市議会議長は藤江康儀です。三島市公式サイトによると『所属会派 改革みしま 期数4 所属委員会・役職等 議長 総務委員会』とあります。三島市議会議長・藤江康儀に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「金」と伝えられました。三島市観光協会会長は、西原宏夫です。

LinkedIn》には西原宏夫の経歴が掲載されています。『1974年4月すかいらーく(旧ことぶき食品・総店舗数5店の時)に入社。同年10月父病気のため退社。同月、(株)にしはらグループ入社。平成元年(1989年)から平成30年(2018年)までの30年間、(株)にしはらグループの社長を務める。

その間、静岡県東部・中部・神奈川に飲食店を展開し、2018年10月より会長に。別会社のデザインルームワン(デザイン、広告、看板)の社長も兼務。◆2018年11月より、塾長として「西原ゼミ」を開講。現在3か所で月に3回から4回の勉強会を開催。◆21経営研究会(静岡県東部の経営者の勉強会)の事務局(32年間)

◆落語会(入船亭扇治の会)会長(28年間)◆静岡県中国武術協会の大会会長(30年間)〈主な所属団体・役職〉三島市観光協会会長、三島田方法人会副会長、三島田方勤労者福祉サービスセンター会長、(協)静岡県中小企業労務協会副理事長、社会保険協会三島支部長、三島商工会議所監事、三嶋大社総代、裏千家淡交会沼津支部長他』。

三島市観光協会会長・西原宏夫に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「DS」と伝えられました。公式サイトによると、三島市商工会議所会頭は、石渡浩二(石渡食品拒纒\取締役)です。《パイプオヤジ》によるとプロフィールは、『石渡氏は同市出身で、祖父が創業した石渡食品に1978年入社。

81年にパン製造のグルッペを設立して社長に就任し、89年から石渡食品の社長も兼務している。同商議所では2010年から常議員、13年から副会頭を務めたほか、青年部会長や工業部会長なども歴任した』と記されています。また、石渡浩二のface bookには、『県立韮山高等学校1973年卒業。出身校・成城大学』とあります。

三島市商工会議所会頭・石渡浩二に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「亀派」と伝えられました。亀派とは八咫烏のことで、米国・朝鮮派の工作員ということです。支配層・八咫烏には、欧州・中国・ロスチャイルドの「鶴派」と米国・朝鮮・ロックフェラーの「亀派」の2つの勢力があり、末端では対立関係にあります。

しかし、上層部は、2つの勢力を跨っているので「同和派」となり、鶴派と亀派を戦わせて利益を得る構図になっています。いずれにしても、殆どの場合、支配層の権力者は工作員の役割を成しています。また、三島市に所在する場所として、「三嶋大社」と「龍沢寺(りゅうたくじ)」の2箇所をワーク対象に選びました。

寺院や神社の宗教施設は、古くから支配層の隠された松取り場所であり、重くて大きなエゴ・金の闇のエネルギーが引継がれてきています。三嶋大社の情報はwikiに記載されています。『三嶋大社(三島大社)は、静岡県三島市大宮町にある神社。式内社(名神大社)、伊豆国一宮、伊豆国総社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。

[概要]静岡県東部の伊豆半島基部、三島市の中心部に鎮座する。境内入り口の大鳥居前を東西に旧東海道、南に旧下田街道が走る。周辺は伊豆国の中心部として国府のあった地で、のちに三嶋大社の鳥居前町として発達、いつしか地名も大社に由来して「三島」と称されるようになったとされる。

社名の「三嶋」とは伊豆大島・三宅島等から成る伊豆諸島を指すと言われ、主祭神は伊豆諸島の開拓神である。当社は、古代には伊豆諸島の噴火を畏れた人々から篤く崇敬された。中世に入ると、伊豆国の一宮として源頼朝始め多くの武家からの崇敬を集めた。近世以降は三島が東海道の宿場町として発達した。

そのことに伴い、東海道を往来する庶民からも篤く信仰された神社である。境内では本殿・幣殿・拝殿が国の重要文化財に、キンモクセイが国の天然記念物に指定されている。また社宝では、北条政子の奉納と伝わる国宝の「梅蒔絵手箱」を始めとして、多数の所蔵品が国の重要文化財や静岡県指定文化財に指定されている。主祭神:大山祇命 積羽八重事代主神』。

三嶋大社には、2014年5月23日に訪れて、祈りのワークを行っています。《静岡 三嶋大社 〜巡礼の旅(89)〜》にその時のワークの概略として『社殿右手前にある神木に光を降ろし、白龍が解放され、神池の畔の大きな神木と根元の稲荷の祠に光を降ろして、黒龍が解き放たれた三嶋大社での浄化と封印解除』と記しています。

三嶋大社の神木から白龍と黒龍が解放されました。神社や寺院の多くが神木などに自然の精霊の王としての龍が封印されています。本来の龍は精霊の光であり、神社や寺院は、松取り場所となり、自然の光を封印する役割でもあります。今回は、三嶋大社の宮司と所在地に光を降ろすことにしました。サイト情報によると、三嶋大社の宮司は矢田部盛男です。

三嶋大社の宮司・矢田部盛男所在地(静岡県三島市大宮町2丁目1-5)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「金春アヌンナキ」「いいです」と伝えられました。龍沢寺の情報はwikiに記載されています。『龍沢寺は、静岡県三島市にある臨済宗妙心寺派の寺院である。山号は円通山。修行道場として僧堂があり、龍沢僧堂とも呼ばれる。

白隠慧鶴の高弟である東嶺円慈による創建。このとき東嶺は師の白隠慧鶴を開山に請じている。そのため現在では白隠を龍沢開山、東嶺を龍沢創建として開山堂に祀っている。その後、明治の廃仏毀釈で一時衰退したが、大正になり山本玄峰により「白隠の古道場」として復活した。現在の住職は後藤榮山。

伊豆八十八ヶ所霊場第21番札所であるが、年8回行われている接心(坐禅専一修行期間)中は境内の立ち入りに制限が入る。[歴史]近世の地誌によれば、平安時代初期、空海が今日の東京都港区愛宕に創建したとされ、慶長年間(1596年-1615年)臨済宗に改宗されたというが、近世以前の寺史は判然としない。

臨済宗中興の祖と言われる白隠慧鶴の高弟東嶺円慈によって、1760年(宝暦10年)に創建された。この時東嶺円慈は師の白隠を開山に請じた。同年4月、多くの修行僧が集まり最初の結制が行われた。但し、この時の地は現在地とは別である。翌年の1761年(宝暦11年)9月には、現在の地に方丈庫裏が完成したので、改めて師の白隠慧鶴を迎え開山入寺の上堂が行われた。

明治時代、星定元志が再興するが、その後は荒れ寺となっていた。大正4年(1915年)、山本玄峰が廃寺同然の龍沢寺に入り、修行道場として復興した。山本のもとには著名人が多く参禅し、第二次世界大戦末期の首相であった鈴木貫太郎に無条件降伏を進言したのも山本であった。山本の後は、中川宋淵、鈴木宗忠、中川球童、後藤榮山が住職を務めている』。

田中清玄の師で昭和天皇に「終戦の詔勅」の文言を進言した当時の八咫烏の中心的存在の禅僧・山本玄峰》にありますが、山本玄峰は、重要な八咫烏の役割を担っていたと見ていました。wikiには、山本玄峰が鈴木貫太郎に無条件降伏を進言したとありますが、山本玄峰のワークからは、彼自身も「上層部に利用されていた」とその無念さを伝えてきていました。

龍沢寺の現住職は、後藤榮山です。サイト情報に後藤榮山のプロフィールが書かれています。『昭和5年東京生まれ。20年禅寺にて出家。30年早稲田大学第二文学部哲学科卒業後、龍澤寺専門道場に入門。中川宋淵老師、鈴木宗忠老師に就いて参禅。海禅寺住職などを経て平成20年龍澤寺住職となる。

フランスなど海外でも禅の普及に努める他、海禅寺徹心会、東京大学陵禅会で禅指導を続ける』。龍沢寺の現住職・後藤榮山所在地(静岡県三島市沢地326)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「八咫烏」「いいです」と伝えられました。龍沢寺は、三嶋大社と同様に湧水の光の地を封印するために置かれました。三島の地に本来の光がに蘇ることを願っています。

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posted by 地球の子 at 12:49| 静岡県 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする