2024年09月16日

北海道 支配層の裏の金儲けの松利権の闇が潜む札幌大化院 〜巡礼の旅(757)〜

「札幌大化院は刑務所や少年院を出た人の更生保護施設。札幌大化院の設立者は助川貞二郎。石山馬車鉄道の設立などに尽力した現在の札幌の交通体系を確立した先駆者の一人。刑務所や少年院を出た人たちを軟石採掘などの労働者として働かせて、密かに松取りの犠牲にしていたことが推測される。」

更生保護施設「札幌大化院」の歴史、創設者や縁ある場所をネットで調べていくと2017/09/18のブログ記事《札幌大化院》を見つけました。『先日の円山散策の帰途、目に留まりました。「更生保護法人 札幌大化院 希望寮」。「札幌大化院」という名前に感慨を覚えました。これは助川貞二郎が興した更生保護施設ではないか。

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文野方佳「助川貞二郎小伝(中)(『「新札幌市史」機関誌 札幌の歴史』第28号1995年)に、以下のように記されています(引用太字、p.53)。大正元年九月、恩赦に浴した貞二郎は、妻ヒデが細々と続けていた釈放者のための更生保護事業に本格的に取り組むことを決意。北一条西二十丁目に札幌記念保護会と名付けた施設を設けた。

軍手、紙袋貼りなどの更生事業に私財を注ぎ込む。大正四年に一月には札幌大化院と改称して、施設を南一条西十七丁目に新築移転した(札幌市史-文化社会編、北海道社会事業団体誌)。この頃「花の日」と名付けて、花見客で賑わう円山公園で、ボランティアの婦人や女学生たちが街頭に立ち、免囚救済の慈善運動の資金集めに造花売りをした。

街の話題になった(北海タイムス 大4・5・14)。貞二郎が亡くなった後、この更生保護事業は長男の貞利が引継ぐことになる。文中「恩赦」というのは、助川は1905(明治38)年に官吏侮辱で、1908(明治41)年に文書偽造行使などでそれぞれ有罪判決を受けた(前掲書p.50)ことに対するものでしょう。

あの助貞が始めた施設が今も続いている。「今も」という書き方は失礼かもしれませんが、敬意を込めます。百年以上にわたって続いているのですね。南1条西17丁目は、当時は札幌区の西の端でした。1923(大正12)年には市電一条線が通じます。助貞とのゆかりを感じさせる場所でもあります』。

更生保護施設「札幌大化院」の設立者は、助川貞二郎です。助川貞二郎が他界した後、この更生保護事業は長男の助川貞利が引継いでだといいます。助川貞二郎の経歴を調べると《助川貞二郎》の記事にプロフィールや功績の詳細が記されていました。『[プロフイール]現在の札幌は、地下鉄、市電、市バス、民間バス路線が市内をくまなく走行しています。

しかし、札幌の交通の原点は、1909年(明治42年)の石山馬車鉄道です。これらの事業は助川貞二郎(すけがわていじろう)の努力に負う処が大きく、助川は、現在の札幌の交通体系を確立した先駆者の一人です。彼は1860年(万延元年)現在の茨城県筑波村で生まれました。

助川は、1904年(明治37年)札幌石材馬車鉄道合資会社を設立し、馬車鉄道時代から電車時代、更には定山渓鉄道の事業にも参画するなど、交通面で多くの功績を遺しています。貞二郎は、1929年(昭和4年)9月、70才での生涯を終えました。[馬車鉄道時代]札幌に馬車鉄道が始まつたのは、南地区で軟石の採掘が始まり、これを輸送する手段として使われたものです。

明治4年(1871年)、ケプロンに同行して来道した、ワーフイルド・アンチャルが札幌周辺の地質調査を行い、現在の石山地区での採掘を明治7年(1874年)から始めました。この札幌軟石は、当時の開拓使本庁舎や豊平館の建築にも使用されています。このレリーフは、藻南橋の欄干に掲げられているものです。

当時の採掘現場と馬車鉄道の様子を描いています。馬車鉄道札幌の交通機関はこの馬車鉄道から始まりました。札幌石材馬車鉄道株式会社は、1912年(明治45年)札幌市街馬車軌道株式会社と改め、市内の各地域に路線を拡張しました。1910年(明治43年)には札幌駅前までの軌道が敷設されています。

写真は、1912年(大正元年)市内を運行する馬車鉄道です。[馬車鉄道から電車時代へ]馬車鉄道から電車に変わる契機となつたのは、開道50周年を記念して開催された博覧会でした。この博覧会は、1918年(大正7年)8月から9月にかけて開催されましたが、この博覧会には馬鉄に替わって電車を走らせようという気運が盛り上がりました。

1916年には社名も、札幌電気軌道株式会社と改められ、電車導入に向けての努力が払われました。この中心的な役割を果たしたのが助川貞二郎で、多くの困難を克服して博覧会に電車を無事走らせ、助川の面目躍如たるものがありました。[市営交通への転換]その後札幌市も1922年(大正11年)市制が施行されました。

電車の公益性に鑑みて公営化の動きが急速に高まり、1927年(昭和2年)事業の譲渡が成立して12月1日より市電として運行されるされるようになりました。この電車事業の譲渡に当たっては、助川と高岡市長との間のねばり強い交渉が続けられました。市電の運行にあわせて昭和5年からは市バスの運行も開始されました。

市電・市バスが札幌市民の足として大きな役割を果たす事となりました。札幌の交通体系も現在は昭和46年12月開通の地下鉄が主力となり、市電・バスなど市内を縦断する交通網が整備されていますが、これらの原点を作りその後の発展に大きな力を尽くした先駆者である助川貞二郎の功績の偉大さを改めて思い知らされるのです』。

更生保護施設・札幌大化院の設立者・助川貞二郎は、石山馬車鉄道の設立などに尽力した、現在の札幌の交通体系を確立した先駆者の一人でした。石山馬車鉄道は、南地区で採掘された札幌軟石を輸送する手段として使われました。札幌大化院は、刑務所や少年院を出た人の更生保護施設です。

助川貞二郎は、刑務所や少年院を出た人たちを軟石採掘などの労働者として働かせていたことは、容易に想像できます。江戸時代から支配層は、炭鉱(鉱山)、治水工事、生糸産業などの労働者を使いながら裏で松取り(松果体収穫)を行っていたと捉えています。表で労働者として使役して、裏で労働者を犠牲にした松取りが行われてきたのです。

支配層は、表裏の金儲けをするために一石二鳥も三鳥にもなる工作を行ってきました。《サイト情報(リンク切れ)》には、助川貞利(助川貞二郎の長男)の情報が記されています。『明治24年茨城県に生まれ、大正5年早稲田大学を卒業後、一貫して社会福祉事業、特に更正保護事業に心血を注いだ。

昭和4年札幌大化院を父から継承して、生活困窮者、身障者の福祉に尽力した。戦後は北海道保護司連合会会長として活躍、同28年札幌厚生会を創立して刑余者の更正、救護に努力した』。また、助川貞利のプロフィールが掲載された《助川貞二郎のもうひとつの顔》があります。

『実業家としてたいへん活躍した助川ですが,社会福祉事業にも力を入れていました。もともと妻・ヒデが行っていた《釈放者を保護・更生する事業》を発展させ,1915(大正4)年に釈放者に住居と仕事を提供する施設を作ったのです。この施設は「札幌大化院」といい,100年を過ぎた現在も南1条西17丁目にあります。

こちらも100年!!! 驚きです。1929(昭和4)年に助川が亡くなった後,「札幌大化院」の院長となったのは助川の息子・貞利でした。貞利といえば,父が始めた電車事業を助けるために東北大学理学部助手を辞めて札幌にもどり,除雪用のササラ電車を発明した人です。父の保護更生事業を受けついだ貞利は社会福祉の活動を続けました。

北星学園が大学を設立するときには社会福祉学科を創設して主任教授となり,1967(昭和42)年には北星学園大学の学長に就任しています』。助川貞二郎の長男・助川貞利は、父親の助川貞二郎の支配層・八咫烏の工作員の役割を引継いでいたと見ています。札幌大化院の設立者・助川貞二郎と後継者の助川貞利の御魂が上がるよう意図して光を降ろしました。

「水戸の工作員」「アーク」と伝えられました。《南朝を正統とする大日本史を編纂して尊王攘夷運動の原点の水戸学を生んだ徳川光圀》にありますが、江戸時代に水戸徳川家が藩主となる水戸藩は、天狗党の乱など支配層の工作の中枢となり、松工作の現場作業員を担っていました。

表に出ない裏で工作活動を成した現場工作員を多く輩出しています。助川貞二郎・助川貞利の助川家も水戸藩の現場工作員の家系だったと推測します。また、鉄道は、支配層の松の陸路輸送のために必要でした。古くからの廻船業・海運業による松の海路輸送、近代の航空機による松の空路輸送とともに重要なインフラです。

インターネットの起源となる欧州原子核研究機構とアドレノクロムの闇のネットワーク》には、インターネットの起源が欧州原子核研究機構の内部連絡網だったことを記しています。郵便、電話、インターネットという連絡・通信も、陸海空の輸送手段と同様に、支配層の裏の金儲けの松利権網のネットワークに必要でした。

裏に人命に関わる隠された真実の松利権がある故に、表の世界も深い闇に変わってきたのです。裏の松利権網の構築のために、表のインフラが整備されて来たとも言えます。札幌大化院についてネット情報を収集していきました。《札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ》に有用情報がありました。

『〈新札幌市史 第3巻 通史3(授産場)〉このほか、大正元年札幌大化院(南1西14)が創立され、失業者救済の目的で諸種の事業を行っていた(北タイ・・〈新札幌市史 第4巻 通史4(民間社会事業施設)〉C 釈放者保護 北海道授産場 財団法人 明42.11 大9.3.20 札幌村字苗穂 24人を収容 札幌大化院,北海道授産場、

札幌大化院はともに、いわゆる犯罪を犯した人の服役後のC釈放者保護を目的とした施設である。やがて同会は、大正四年名称を「大化の改新のような気持ちでやろう」と札幌大化院と改称した。両施設の作業内容は、軍手・靴下編み、紙袋貼などを行い、また札幌大化院では食堂の看板を出した。

地域の人びとに,ところで、昭和十一年の両施設の入所者数をみてゆくと、北海道授産場は一四〇人で前年の一・一六倍、札幌大化院・・・〈新札幌市史 第4巻 通史4(行幸)〉札幌聾話学校 岡部侍従(十月二日)札幌商業学校、帝国製麻札幌支店、北海道社会事業協会附属札幌病院、札幌大化院』。

上記資料には、札幌大化院の他に「北海道授産場」という固有名詞が出て来ます。北海道授産場も、札幌大化院と同様に、刑務所や少年院を出所した人たちの保護施設であり、隠された闇が存在する場所であることが窺えます。「授産場」をネットで調べると「授産所(じゅさんじょ)」のwikiに行き着きました。

『授産所は、日本において生活保護法を根拠とし、保護施設の一つとして、主に政府機関や社会福祉法人などの団体によって運営される心身障害者施設の一つである。授産施設とも呼ばれる。授産所が援助付き雇用と異なるのは、一般雇用から切り離された部門で行われる点であり、心身に障害を抱えた人々を他より隔離された環境において就業させる事業所や団体である点である。

2006年までは、おもに障害者関連の法律(身体障害者福祉法、知的障害者福祉法、精神保健福祉法)に基づいて設置される法定授産施設と、それ以外のいわゆる小規模授産施設の2種類に大きく分けられていた。2006年の障害者自立支援法施行後は、法定授産施設は障害者自立支援法に基づく障害福祉サービスを提供する施設・事業所へ移行した。

旧法における身体障害者授産施設、知的障害者授産施設、精神障害者授産施設は経過措置として、2011年まで特定旧法指定施設として、従来の規定により運営可能であった』。授産所(授産場)は、心身障害者施設の一つでした。授産所-wikiの関連項目に『野中広務 - 政治活動を行いながら、授産所「京都太陽の園」を運営していた』と記されています。

野中広務は、"毒饅頭"で有名な自民党所属の国会議員の重鎮でした。経歴はwikiに記載されています。『野中広務(1925年-2018)は、京都府南丹市(旧・園部町)出身の政治家。位階は正三位。京都府船井郡園部町長(2期)、京都府副知事、衆議院議員(7期)、自治大臣(第48代)、国家公安委員会委員長(第56代)、内閣官房長官(第63代)、沖縄担当大臣(第3代)、沖縄開発庁長官(第38代)、自由民主党幹事長、自由民主党行政改革推進本部長などを歴任。

[経歴]1943年春、旧制京都府立園部中学校(後の京都府立園部高等学校)を卒業し、日本国有鉄道大阪鉄道局の職員として採用され、大阪・梅田の大鉄局業務部審査課に配属された。ここで当時の局長だった佐藤栄作(後の首相)と出会う。 1945年1月に陸軍に召集。最終的に陸軍第155師団歩兵第452連隊に配属、高知県で終戦を迎える』。

野中広務は、衆議院議員を務めながら授産所「京都太陽の園」を運営していたことは、裏の金儲けである松利権を有していたことを示唆します。障害者施設を含めた福祉の世界は、支配層の裏の金儲けのための闇の仕組が潜んでいるのです。野中広務の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「中国」と伝えられました。欧州・中国勢力の八咫烏鶴派の工作員の役割だったようです。

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posted by 地球の子 at 21:26| 北海道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする