2024年10月27日(日)、父親の四十九日法要のために静岡県伊豆の国市にある香山寺に訪れました。今回、法要を兼ねて訪れた伊豆の国市韮山の実家の菩提寺と伊豆長岡の地は私にとっても過去世の自分を知るための重要な場所でした。幼少期から身近な場所だった香山寺は、歴史的に源平の因縁が深い臨済宗の寺院です。

平氏の判官の役目の山木兼隆(やまきかねたか・平兼隆)が源頼朝の挙兵に伴う襲撃で討たれた地でもあります。香山寺の情報は《熱海ロマン紀行》に記されています。『平安時代末期に伊豆国の目代(もくだい)を務めた山木(八巻)兼隆が、1154年(久寿元年)に建立した寺院。兼隆は、源頼朝が源氏再興の挙兵をした際、最初に討ち入られたとされる人物です。
境内には供養塔が建てられています。それから170年余りを経て荒廃していたところを、1330年(元徳2年)に足利尊氏の祖父・家時が切り拓き、雲厳寺(栃木県那須)から佛乗(ぶつじょう)禅師を招いて再興するも、再び天下争乱の世が訪れ衰退してしまいました。時を経て、後北条氏の祖として知られる戦国時代の武将・北条長氏(早雲)が諸堂伽藍を創建時と同様に復興しました。
境内地2万5261坪と門外の寺領を寄付するなどして中興しました。早雲は、京都大徳寺第83世となった禅宗の僧・以天宗清(いてんそうせい)を住まわせたともいわれています。しかし、豊臣秀吉の小田原征伐によって香山寺は宝物などを消失。1597年(慶長2年)に韮山城主の内藤信成の手によって再興されました。
争乱にさらされながら荒廃と再興を繰り返してきた境内からは、兼隆が館を構えていたと伝えられる山木地区を一望できます』。香山寺の住所は伊豆の国市韮山山木であり、「山木」の地名は「山木兼隆」に由来しています。山木兼隆(平兼隆)の経歴はwikiに記載されています。『山木兼隆は、平安時代後期の武将。平兼隆または大掾(だいじょう)兼隆ともいう。
桓武平氏大掾氏の庶流和泉守・平信兼の子。[略歴]検非違使少尉(判官)として別当平時忠の下で活躍し、白山事件にて天台座主であった明雲が処分されることになった際にはその警備にあたっている。ところが、父である信兼の訴えにより罪を得て(理由は不明)治承3年(1179年)1月に右衛門尉を解任され、伊豆国山木郷に流される。
治承三年の政変の後、懇意であった伊豆知行国主・平時忠により伊豆目代に任ぜられた。そのために兼隆は伊豆で勢力を持つようになっていた。「曽我物語」などによると、伊豆の豪族・北条時政が大番役で京へ上っていた間に娘の政子が源頼朝と恋仲になり、帰国の道中に兼隆との縁談を進めていた時政は平家の怒りを恐れ、政子を兼隆のもとへ送ろうとする。
しかし、勝気な政子は逃げ出して頼朝のもとへ行ってしまう。兼隆は激怒するが、頼朝と政子は伊豆山権現に庇護され手が出せなかったという。「吾妻鏡」でも、後に政子が頼朝に向かって「闇夜をさまよい、雨をしのいで貴方のところを参りました」と述べており、頼朝も兼隆に対して「私の意趣がある」と述べている。
ただし、兼隆の伊豆配流は治承3年(1179年)の事であり、頼朝の長女・大姫の生年などから見て、兼隆と政子との婚姻話は物語上の創作と思われる。更に、治承3年当時の伊豆国の知行国主は源頼政で、以仁王の乱によって頼政と伊豆守であった息子の源仲綱が討たれた後の治承4年(1180年)6月29日に平時忠が伊豆の知行国主、時忠の猶子の平時兼(平信国の子)が伊豆守に任命されたことが指摘されている。
兼隆の目代任命から頼朝に討たれるまで2か月弱しかなかったとする指摘も出されている。治承4年(1180年)8月、頼朝は以仁王の令旨を受け挙兵、兼隆の館を急襲する。三島大社の祭礼のために郎党の多くが留守だったため兼隆は満足に戦うことができず、加藤景廉によって討たれた(山木館襲撃)。
異説では、兼隆は基饒という法名をもち、その子孫は武蔵国秩父郡に逃れて、八巻氏と称して甲斐国の武田氏、常陸国の佐竹氏、越後国の上杉氏、陸奥国の伊達氏に仕えたという』。過去にワークを行ったことから山木兼隆(平兼隆)の御魂は光に還っていました。本堂での法要の前に、山木兼隆の墓所に訪れて手を合わせると山から冷たい空気の純粋なエネルギーが流れてくるのを感じました。
菩提寺の香山寺についても、これまでに幾度も光を降ろしており、場所的には開かれている地だと捉えていました。山木兼隆(平兼隆)のwikiの内容で目に留まったことが、2つあります。1つは、山木兼隆が実質的には、平時忠の配下にあったと窺える点です。『懇意であった伊豆知行国主・平時忠により伊豆目代に任ぜられた』とあります。
山木兼隆は、平時忠によって伊豆の地に送られたと感じます。実は、平時忠は、裏の松取りの仕事を成す役割を担っていたと見ています。《能登半島の鰐埼から繋がった松取り工作で源義経と通じていた平時忠》にありますが、平時忠は、平氏の棟梁・平清盛の配下の裏の松取り部隊長だったと理解しています。
戦や戦争は、支配層の裏の金儲けのための工作です。2つの軍隊の上層部が裏で手を組み、現場の兵士や市民の命を犠牲にした松取り工作なのです。松取り工作について具体的には、兵士の遺体や血液を採取して、現代の不老長寿・若返りに効能があるとされる高級麻薬のアドレノクロムに相当する丸薬などをつくっていたと見ています。
戦争という支配層の松工作の源流が源平合戦だと捉えています。それゆえに、平氏の松取り部隊長の平時忠は、裏で源氏の松取り部隊長の源義経と通じていました。平時忠は、平氏の松工作部隊長であり、その配下であった山木兼隆も松工作員としての役割を担っていたのです。これまでの調査とワークから平氏は、支配層・八咫烏の鶴派であり、源氏は、支配層・八咫烏の亀派だと捉えています。
これが八咫烏鶴派と亀派の戦う構図であり、上層部が戦わせているイカサマの嘘・工作の図式でもあります。この2つの勢力が下で純粋に戦って上で手を組む構図となる三角形の闇の仕組が生まれてきました。それ故、山木兼隆は八咫烏鶴派の松取りの現場工作員であるサンカだったと見ています。もう1つは、山木兼隆を祖とする八巻一族が全国各地に移り住んだ点です。
wikiには、『異説では、兼隆は基饒という法名をもち、その子孫は武蔵国秩父郡に逃れて、八巻氏と称して甲斐国の武田氏、常陸国の佐竹氏、越後国の上杉氏、陸奥国の伊達氏に仕えたという』記述があります。また、先述の引用サイトには、『〈棟梁を討たれ「八巻」姓へ〉山木(八巻)兼隆は、平氏の一族である平信兼の子で、親子間の不和により伊豆韮山に遠流されました。
しかし、京都での政変により、伊豆国の目代(国を収める長官の代官)として取り立てられました。源頼朝の挙兵により討たれた際、山木一族は追っ手から逃れて秩父の山中で過ごしたのち、甲斐国(現在の山梨県)で「八巻」姓になったと伝えられます』とあります。八巻一族は、全国の武将の裏の仕事を担う八咫烏のサンカの役割だったと感じます。
八巻一族が仕えたという甲斐国の武田氏、常陸国の佐竹氏、越後国の上杉氏、陸奥国の伊達氏は、いずれも有力大名であり、甲斐国(長野県)、常陸国(茨城県)、越後国(新潟県)、陸奥国(宮城県)は、本来、大事な光の地ゆえに、深い闇の地に変わっています。地上や地底の光の精霊は、松取りによって闇の精霊に変わり魔物の役割となります。
八巻一族のサインは、法要の前日・10月21日(土)に来ていました。外出して徒歩で宿泊施設に帰る時に、両肩が凝って重くなりました。伴侶にみてもらいながら自分に光を降ろすと「やまき」と伝えてきました。「八巻一族」だと感じました。ネットで調べると《やまき同族会公式サイト》を見つけました。トップページには、やまき一族の家紋が掲載されています。
家紋は「丸に違い鷹の羽」です。家紋は真実を探求する上でのヒントになります。《十字架が示唆する秦氏の純粋の闇の役割》にありますが、家紋の「丸に違い鷹の羽」は、X十字であり、秦氏の純粋の闇としての八咫烏の役割を暗示すると見ています。八巻一族は純粋の闇の八咫烏だったと感じます。上記の引用サイトの内容をかいつまんで纏めると以下のようになります。
『山木兼隆は八巻一族の始祖』『八巻一族は、桓武天皇、平清盛がルーツ』『武田家滅亡後に武士を辞めて百姓になる』『やまきには、山木・八巻・八牧・屋巻などの表記がある』『八巻一族は平家最初の落人』。日本の暗闇の始まりとも言える源平の2大勢力の対立・戦いの裏には、サンカの役目のやまき一族の存在があったのです。
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