2024年10月27日(日)の父親の四十九日法要のために、伊豆の国市の長岡にある古奈温泉の宿泊施設に滞在しました。私の故郷は伊豆の国市の韮山山木ですが、宿泊施設を長岡の地に選んだことは何か意味があると感じていました。伊豆の国市は、鎌倉幕府を開いた源頼朝が挙兵した場所です。
源頼朝の後ろ盾として、また黒幕として動いていた三つ鱗(みつうろこ)の家紋の北条氏の拠点の地でもあります。北条氏は、支配層・八咫烏の源流の1つ氏族だと捉えています。これまでにも、伊豆の国の現地に足を運んで幾つかのエネルギーワークを行ってきました。まず、2014年5月に行った伊豆滝山不動堂(いずたきやまふどうどう)のワークです。
《伊豆の国 伊豆滝山不動 〜巡礼の旅(100)〜》には概要として『2014年5月の伊豆滝山不動堂にて、文覚上人(もんがくしょうにん)と不動明王のエネルギー体を光に導き、石碑のある木に光の柱を降ろして玉に乗った龍神が解放され、皇大神社にて、社殿の山に光を降ろして玉が取れた、伊豆巡礼の旅』とあります。
2014年8月には、後北条氏の居城である韮山城跡で光を降ろすワークを行っています。《伊豆の国 韮山城跡 〜巡礼の旅(128)〜》には、『韮山城・本丸跡にて光を降ろし、巻き上げる風で龍神が解放されたと感じ、青緑色に輝く玉虫が飛んで来た、伊豆の国市韮山の巡礼の旅』とあります。
同じく2014年8月には、鎌倉時代から続く名家である江川氏の菩提寺・本立寺を訪れて祈りのワークを行いました。本立寺は、1261年、伊豆に流されていた日蓮上人が、十六代当主江川太郎左衛門英親に招かれ、教化を行ったところとされます。《伊豆の国 本立寺 〜巡礼の旅(127)〜》には、ワークのまとめを記しています。
『香山寺(こうざんじ)の山木兼隆供養塔、山木館跡に光を降ろて、源頼朝の挙兵時の襲で犠牲になって留まる御魂を光に誘い、本立寺(ほんりゅうじ)の背後の豊臣秀吉軍の付け城があった七面山(しちめんさん)に光を降ろして、黒龍が解放されたと感じる風が吹いた、伊豆の国市韮山の巡礼の旅』。
2015年10月には、北条義時の御魂を上げるために、伊豆の国市南江間にある北條寺を訪れています。《伊豆の国 北條寺 〜巡礼の旅(156)〜》には、『早雲寺から一緒に来た、北条早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直、5名の小田原北条氏のエネルギー体が北条義時の墓前の前で、この地に留まることを終えて光に昇るよう説得した。
「北条一門」と叫びながら北条義時のエネルギー体が昇天して行った、北條寺での浄化と解除』と記されています。私が、伊豆の国市に生を受けたのは、過去世で暗闇にして来た、この伊豆の国市を本来の姿に戻すことだと理解していました。今回、伊豆の国市の伊豆長岡温泉の宿泊施設を選んだのは、闇を解除・統合すべき場所があると感じていたからです。
キーワードは、「八巻(山木)」「サンカ」「被差別部落」で、事前にネット検索していくと、《曲輪クエスト(316) 伊豆の国市 長岡》に行き着きました。そこには、次のような興味深い情報が載っていました。『旧田方郡伊豆長岡町に洞という部落があったという。戸数は19。洞と言えば谷のどん詰まりであり、以前探訪した石井洞がその一例である。
そのため、今回もそのような地形に目をつけた。菊池山哉は次のとおり記録している。○この曲輪(くるわ)を洞と呼ぶ、丘陵に囲まれ、沢の入り込むだ地で、今でも通る人はない。洞の名は行き止りを意味してる。俗に洞穴とか、洞の貝などと云、この曲輪も、沢の行き止りに存する。○鎮守は八幡神社と山木神社の二つ。
山木神社とは何か判然りしない。祭日は正月十七日と九月十七日。○何れも純農で、十七戸ばかり。○ここの丘陵に露出石棺がある。他に二三の古墳がある。粉ふ方なく、此棺の主の守戸である。此邊天野郷の内であらう。即ち天野郷司であり、田方郡小領の人の古墳であらうか。
すぐ北の珍場にも、粕谷方面にも古墳がある、街道筋にもあらず、その前身は守戸と見るべきで、曲輪の発生に守戸ありとの関係を示す、特異の箇所である。ここの石棺には腕貸伝説が伴ふ、昔は棺のところで、願をかけると、翌くる日は、茶碗が揃って、口元へ出してあったと云、守戸即土器師であったらしい。(菊池山哉「長吏と特殊部落」)。
文中に出てくるものは現在も残っている。まず、これが露出石棺。つまりは、もとは古墳の中にあった石棺が外に出てきたものである。これは土地の有力者の墓であり、部落はその墓守をしていたというのが菊池山哉の説だ。現地の説明板にも「長岡洞」の文字がある。かつてはこの石棺の裏手の斜面にも家々があったが、今はなくなっている。
腕貸伝説というのは、全国各地で見られる、神や妖怪の類が、祭礼に必要な食器を貸してくれたという伝説。この日は、お椀ではなくてトップバリューのワンカップ酒が置かれていた。近くには古い民家と滑り台がある。古いすべり台は錆びていて滑れそうにないが、芝生が手入れされているのが印象的だった。
この小さな寺は妙長寺。日蓮宗である。伊豆の他の部落でも見られた「野田」という名字がある。この墓地は宮本で、周辺にも宮本という名字の家が多い、そこで最初は宮本がこの部落の名字だと思った。そして次なるキーとなる物件が八幡神社。少し高いところに屋根が見える。
入り口がないか探した。沢の行き止まりにあると言うが、ここにそれらしい地形がある。ただ、現地には文化住宅のようなものがあり、明らかに住民が入れ替わっている。その近くに八幡神社に続く石段があった。神社は、崖の上にあり、斜面に囲まれている。これが八幡神社であろうか。
稲毛、中村、宮本の名字が見えるが、これはおそらく故郷を離れて東京に住んでいる人が寄付したもののようだ。さらに、八幡神社の上にも神社があり、崩れかけた石段はなんとか登ることができる。これは、まさに菊池山哉が記録した山木神社である。その横にも、何やら神社があるのだが、風雨のためか派手に壊れており御神体が露出してしまっている。
明治時代の石柱に掘られた氏子の名字は、ほとんどが稲毛。これは部落の歴史を解き明かすための手がかりになりそうだ。近くにはモダンな建物が建設中だ。工事をしている人に聞いてみると、地元の若者が、古い家をリフォームしたり、店を開いたりしているのだという。その伝手で、部落の歴史を最も知っていそうな人を探してみた。
神社があるのは石棺の東側だが、西側に新しい住宅地が広がっている。ここは昔、田畑だったところだ。部落は農家だったというので、ここは昔から部落の農地だったのだろう。ここにはよそから移ってきた人も多いが、昔からの部落の住民もここに移転しているという。部落があった場所の正式な小字は「車坂」。
そこに八幡神社の氏子である「稲毛」が19戸あり、確かに差別された村だったという。しかし、日露戦争の直後あたりに皆が当たり障りのない名字に改姓した。ちなみに「宮本さんは違う」ということだ。ここでも、静岡県東部の部落では平凡な名字が多いという理由の一端を知ることができた。
そして、今では八幡神社は部落だけの鎮守ではなくなり、周辺一帯で管理しているのだという』。引用サイトに記載された、旧田方郡伊豆長岡町(現・伊豆の国市長岡)に洞という部落(長岡洞)は、明らかに、支配層・八咫烏の松取り現場工作員であるサンカの人たちの村だったと感じます。
引用サイトに出てくる「山木神社」とは、伊豆の国市韮山山木にある「皇大神社」の分社であり、サンカの源流となる八巻(山木)一族が崇敬した神社だと捉えています。すなわち、山木神社は、八巻一族の流れを汲むサンカの人たちが崇めた神社だと感じます。グーグルマップで「山木神社」を調べました。
過去のワーク経験から、サンカの人たちは、「今日も松が取れますように」と祈願するために山木神社にお参りをしていたと想像します。松取りの仕事のために神の力を与えてもらうように祈っていたのです。所在地の住所は、静岡県伊豆の国市長岡1369で、南端が順天堂大学医学部付属静岡病院、北端が三養荘が位置します。
南北に連なる低層の山塊の「源氏山(標高88m)」の北側にありました。《THE 伊豆ジオ遺産》には、『伊豆長岡温泉の真ん中に位置する小高い山を地元では源氏山(げんじやま)と呼びます。白浜層群に属する海底火山からの噴出物が、伊豆半島の衝突により隆起したものです。源氏山の周辺には凝灰岩などの噴出物が露頭します。
あやめ御前広場は、以前は伊豆石(凝灰岩の軟石)の石丁場でしたが、昭和初期に伊豆長岡ゆかりのあやめ御前の姿を彫った石造物と祠を造りました』と記載されています。伊豆長岡の「源氏山」は、海底火山からの噴出物が隆起した山だといいます。源氏山は、火のエネルギーの場所だと感じます。
伊豆の国市の長岡にある「白石の石棺」と「山木神社」をワーク対象に選びました。白石の石棺は、山木神社をグーグルマップで探した時に見つけた場所です。白石の石棺(市指定史跡)の現地案内板の内容は《墳丘からの眺め》に記されています。『豆州志稿や静岡県史に「長岡洞の古塚」や「川西村長岡露出石棺」(洞石棺)として掲載されている。
ふるくから著名なもので、くり抜き式の組み合わせ石棺としてはその豪壮な点において北江間大師山1号横穴の石棺と共に当町石棺の双璧をなすもので、全国的にもまれに見るものと言われる。棺体の箱の部分は全長約2.3m・幅1.5m・高さ1.0mの直方体に近く、厚さは20〜30pあり、正面には横70p・高さ60pの穴がある。
これば造営当初のものとすれば横口式という珍しい形式であり、かまぼこ型の蓋の高さは約88pで、縦横はほぼ同じであるが、前面の一部が欠損している。全体の形は一種の家型を示すが、高さが1.9mと極めて大きいこともこの棺の特色といえよう。このような立派な石棺の有るところは、当時この地に大権力者が存在したことを思わせる。
しかしが、一面この地域が加工しやすい良質の凝灰岩(伊豆石)の豊富な産地であったという立地条件によるところも無視できない。従って、この石棺は本町を中心とした近隣地域の多くの横穴群等とととに、伊豆石採掘についての古い歴史の研究にも重要な手がかりを与える。周囲は昭和20年代までは雑木林で、石棺の位置はわずかにくぼみとなっていた。
その中に、棺の大部分が露出していたが、旅館造成のおり前面の土は削り取られ、三方土でおおい、土止めの石が積まれた状態となっていたが、石棺の保護保存のため、平成元年に移転復元された。旧地形より推定すると、最初は山麓の緩傾斜面を利用して造営された古墳(円墳)中に埋蔵された石棺と考えられる。
これが後世何らかの理由により墳丘の土を取り除いたため、くぼみの中に露出石棺となっていたと思われる。伊豆の国市』。白石の石棺は、元々は古墳の中にあった石棺が露出したものだといいます。これまでのワークから古墳は、松取りが行われた密室であり、土地の光を闇にして封印する役割を持つと捉えています。
また、古墳は地下・地底世界に通じる出入口と推察しています。棺(ひつぎ)に石を使っているのは、石に宿る光の精霊を闇に変えるためです。石の本来の光を闇に反転させるための仕組だと感じます。10月26日(土)の午後、宿泊施設から徒歩で「白石の石棺」と「山木神社」の場所に向かいました。
宿泊施設から約20分歩いて、白石の石棺に到着しました。丘の上にある石棺の周囲は立ち入らないように規制されており、丘の下から光を降ろすと「光は入りました」と伝えられました。次に、山木神社に向かいました。約5分ほど歩いて、山木神社がある丘の下に着きました。丘の周囲を見ると、石切場の名残の石壁が見え、とても重要な光の場所だと感じました。
上り坂が非常に険しいので、丘の下から光を降ろすことにしました。山木神社の地が本来の姿になるよう意図して祈り光を降ろすと「亡くなった人たちが沢山いるので光の柱を降ろして欲しいと伝えられた」と伴侶が言いました。やはり、松取りが行われた場所であり、多くの亡くなった人たちの魂が留まっているようでした。
再度、留まっている御魂が全て上がるよう意図して光の柱を降ろすと「いいです」と伝えられました。源氏山の地は、多くの精霊が宿る石がある光の地であり、白石の石棺があった古墳や山木神社は、精霊を闇に変えるための支配層の松取り場となっていたと見ています。伊豆の国市長岡の源氏山は、八巻一族のサンカの人たちが暗闇にする役割を担って仕事をしていた場所だったのです。
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