2025年04月04日

静岡 源頼朝の重臣・加藤景廉から見える源平合戦の真実 〜巡礼の旅(763)〜

「山木判官・平兼隆を追討した加藤景簾が短剣を首に当てて墓所に来るよう誘った。加藤景廉は、源頼朝の側近で第一の重臣。記録では数々の戦での功績を残したと言われるが、祭上げられた武士。実際は、現場での松取り工作のサンカの役割を担っていた。源平合戦そのものが支配層の松取り工作だった。」

2025年11月25日(月)、亡き父親の残務整理と巡礼の旅のために、静岡県の伊豆に空路で出発する予定でした。当日の早朝に起きると、左側に強い頭痛を覚えました。直感的に「加藤景簾(かとうかげかど)」だと思いました。前日に、巡礼の旅で訪れる場所をネットで調べていて「加藤景簾」が目に留まっていました。

五輪塔.jpg

加藤景簾は、源頼朝が平氏打倒のために伊豆で挙兵する際、平氏の判官である平兼隆(たいらのかねたか)が住まう山木館を襲撃して追討する功を残した武士です。身支度をしていると、頭痛は少し治まっていました。午前6時半過ぎの新千歳空港行のエアポートライナーの電車に乗るためにJR札幌駅に到着すると、再び頭痛が酷くなり、サインだと感じました。

電車を待つ間に、伴侶に見てもらいながら、自分に光を降ろすと「短剣を手にした侍のような人があなたの首に短剣を突き付けている」と伝えてきました。やはり、加藤景簾のエネルギー体が光に還りたいことを伝えるためのサインだと感じました。短剣を首に突きつけられたのは、平将門のエネルギー体を光に還した時も同じでした。

当時の平将門のエネルギー体の仕草は、私と伴侶を墓所の首塚に誘導するためだったと感じました。2024年11月に、東京巡礼の旅の一環で、東京都千代田区大手町にある平将門の墓所「首塚」を訪れて、光を降ろして御魂を上げていました。その時のワークの様子は、《平将門が伝える人間の愚かさ 〜巡礼の旅からの気づき〜》に記載しています。

概要には、『「これを見よ。愚かなことか」と平将門のエネルギー体が伝えて来ました。墓前に手を合わせる人は居ません。祈りを捧げる、感謝の思いを伝えるという大切なものを忘れてしまっています。祈りや感謝は光。多くの人々が大切なものに気づく時に来ています』と記されています。

墓所には、先人に感謝の思いを伝えようとする人はいませんでした。怨念、オカルト、心霊スポットなどの興味本位で訪れる人や御利益を得るために訪問する人が殆どだと感じました。多くの人たちが本当に大切なことを忘れてしまっている現実を見ることになりました。「これを見よ。愚かなことか」と平将門のエネルギー体が伝えて来たのは、そのためでした。

JR札幌駅で強い頭痛は、加藤景簾からのサインだと感じ、加藤景簾の御魂が光に還るよう意図して光を降ろすと「いいと思う」と伴侶が伝えてきました。加藤景簾の墓所がある静岡県伊豆市牧之郷の一族五輪塔の墓所を訪問する必要性がありました。加藤景簾の経歴などの情報は、wikiに記されています。

『加藤景廉(かとうかげかど・1156年?-1221年)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府の有力御家人。藤原利仁の流れを汲む加藤景員の次男。[経歴]加藤氏は元々伊勢国を本拠としていた。伊勢加藤氏の館は、安濃津の近くの下部田(現在の三重県津市南羽所)にあったと言われているが、明確な所在は不明(「津市史」より)。

平氏との争いにより父・景員に従って伊豆国に下り、工藤茂光らの協力を得て土着勢力となった。嘉応2年(1170年)に伊豆諸島で勢力を伸ばした源為朝討伐に従軍し、大敗して自刃した為朝の首をはねて、戦功を挙げたと伝わる。治承4年(1180年)に源頼朝が平氏打倒のため挙兵すると、父や兄と共にその麾下に参じ、平氏の目代・山木兼隆を討ち取るという大功を立てた。

このような武勇に基づき源平盛衰記は景廉のことを「殊更きりもなき剛の者、そばひらみずの猪武者」と記している。頼朝が石橋山の戦いに敗北した後、兄・加藤光員と共に甲斐国大原荘(富士吉田市、富士河口湖町)に逃れるが、やがて武田氏と共に駿河国に侵攻、鉢田の戦いで目代・橘遠茂を討った。

その後は源範頼に付いて瀬戸内海で平家を討ち、頼朝の奥州藤原氏攻略の際にも従うなど幾度かの武功があった。その後頼朝は関東を制圧して鎌倉殿と称されるようになり、景廉は側近として頼朝に仕えた。病持ちであったと見られ、寿永元年(1182年)6月7日、鎌倉由比浦で弓馬の芸の披露が行われた後の宴席で酒を飲み過ぎて気を失った。

佐々木盛綱が大幕で景廉を包み抱えて運び出したという。翌日、頼朝が車大路の景廉の家へ見舞いに訪れている。元暦2年(1185年)源範頼率いる平氏追討に病身を押して船に乗り九州へ向かったが、鎌倉に残っていた父の加藤景員は、景廉がおそらく死を免れないであろうことを頼朝に訴えたところ、頼朝は驚き嘆息した。

親書をもって範頼に命令して景廉に療養せしめ、平癒の後は早く帰すように伝えた。そして景廉に懇ろな見舞状と馬一頭を送ってこれに乗って帰るように申し送った。文治5年(1189年)8月の奥州合戦の阿津賀志山の戦いで藤原泰衡の館木口を攻めるなど戦功を立てた。頼朝の信任は厚く、建久4年(1193年)頼朝の命により安田義資を誅殺した。

その父・義定の所領遠江国浅羽庄地頭職を与えられた。頼朝が死去した後、正治2年(1200年)に梶原景時の変で梶原景時が滅ぼされると、これと親しかったため一旦は連座して所領の一部を収公されたが大したことはなかった。建仁3年(1203年)9月の比企能員の変において、北条時政の命で比企能員を謀殺した仁田忠常を、北条義時の命によって景廉が謀殺した。

吾妻鏡によると、5日に危篤状態だった源頼家が回復すると逆に頼家から仁田忠常に対し、時政討伐の命令を受ける。翌晩、能員追討の賞を受けるべく時政邸へ向かうが、帰宅の遅れを怪しんだ弟たちの軽挙を理由に謀反の疑いをかけられ、時政邸を出て鎌倉御所へ戻る途中で加藤景廉が殺害した。

また比企能員の嫡男の比企余一兵衛尉は女装して戦場を抜け出したが、道中で加藤景廉が首を取っている。その後も和田合戦などの諸戦で幕府方として働き、再度元老の座に返り咲いた。三代将軍・源実朝の代に鎌倉幕府の評定衆となったが、実朝が鶴岡八幡宮参詣の際に警護の任にあたったが、公暁によって暗殺された。

そのため警備不行き届きの責任を感じて出家し覚蓮坊妙法と改名。承久3年(1221年)6月の承久の乱では宿老の一人として鎌倉に留まったが、8月3日に66歳で没した。墓は静岡県伊豆市牧之郷にある』。2025年11月27日(火)の午後、静岡県伊豆市牧之郷の加藤景廉の墓所に向かいました。伊豆箱根鉄道の牧之郷駅から徒歩で10分程の場所でした。

経験的に、牧之郷(まきのこう)の「牧」は、馬の放牧がされていた場所を意味し、野生馬がいた可能性があります。平将門も、野生馬を軍馬に育成しており、共通性を感じます。馬は、現在では神社の祭りや神事、競馬などで使役されていますが、本来は光の役割です。光の存在である馬は、古くから人間のエゴで封じられてきた存在でした。

馬は、松取りの犠牲になってきた歴史があります。家畜商など馬を保有する人は、今で言う松の利権(松利権)を有していたのです。現在で例えると、競走馬の所有者である馬主が松利権の象徴的な存在になります。《城郭図鑑/牧之郷館》によると、加藤景廉は、牧之郷にあった牧之郷館(現・曹洞宗寺院の吉原山玉洞院付近)で生まれたといいます。

牧之郷駅から徒歩で現地に到着すると「加藤景廉公一族の墓(五輪塔)」の案内板がありました。加藤景廉の墓所は、元々の場所から今の場所に移されたようでした。《伊豆市 観光情報 加藤景廉一族の墓》には、加藤景廉一族の墓の情報が記載されています。『加藤景廉一族の墓 牧之郷・沖の原地区に6基の五輪塔があり、昭和33年の狩野川台風によって流されたものをここに集め祀ったものです。

地元では「五輪さん」と呼ばれ、加藤景廉(かとうかげかど)一族の墓と伝えています。昔、この付近に金剛寺という大きな寺があったといわれ、天明5年(1785年)にこの墓の下から景廉の孫である善願上人(ぜんがんしょうにん)の蔵骨器(舎利瓶)が発見されました。この蔵骨器は静岡県県指定文化財に指定され、現在伊豆市資料館に所蔵されています』。

加藤景廉公一族の墓(五輪塔)の場所には、伊豆市教育委員会の案内板があり、加藤景廉の経歴や加藤一族の謂われが書かれていました。『伊豆市指定史跡 頼朝重臣 加藤景廉公一族の墓 (五輪塔) 景廉は頼朝による源氏旗揚げの挙兵に加わり、大野(伊豆市)の堀藤次親家(ほりとうにちかいえ)とともに、山木(伊豆の国市)判官の平兼隆を討ちました。

石橋山(現 小田原市)の合戦でも活躍するなど、鎌倉幕府を創り上げた功労者の一人です。頼朝は手柄をたてた景廉に牧之郷をはじめ各地に領地を与えました。美濃国遠山庄(現 岐阜県恵那市岩村町付近)では、日本三大山城の一つとして有名な岩村城を築き、この地を長男の景朝(かげとも)に渡した後、景朝は遠山の姓を名乗り、美濃遠山氏の発展の基礎をつくりました。

子孫の中には、北条早雲の第一の重臣であった遠山直景(とうやまなおかげ)や、江戸時代の町奉行「遠山の金さん」こと、遠山左衛門尉(とうやまざえもんのじょう)(金四郎)景元(かげもと)などがいました。健保七年(一二一九)一月、鎌倉幕府の三代将軍の源実朝が暗殺された際の警備最高責任者であった景廉は実朝の霊を弔うために出家し、覚蓮房妙法と号しました。

承久三年(一二二一)五月、鎌倉から牧之郷に帰った景廉は、再び地頭職に就きましたが、八月三日に没し、この地に葬られました。この五輪塔は狩野川台風によって流され、散乱したものを住民がここに集め、流出部分を保管して祀ったものです。昔、この付近に金剛寺という大きな寺があったといわれます。

天明五年(一七八五)この墓の下から景廉の孫である善願上人(ぜんがんしょうにん)の蔵骨器(ぞうこつき・舎利瓶(しゃりびょう))が発見されました。この舎利瓶は、県指定文化財に指定され、現在修善寺郷土資料館に展示されています。昭和六十一年三月八日指定 伊豆市教育委員会』。加藤景廉公一族の墓(五輪塔)の説明書から加藤景廉の役割が推測されます。

歴史的な記録には、多く武功を立てた源頼朝の第一の重臣といわれていますが、実際は、戦(いくさ)という支配層の松利権工作の現場工作員・サンカの役割を担っていたと感じます。鎌倉幕府を創り上げた功労者として、頼朝が手柄をたてた景廉に牧之郷をはじめ各地に領地を与えたというのは、各領地で松取りの現場仕事を成すためです。

加藤景廉とその一族は、武士という松取り工作の現場工作員の家系に生まれて、その裏の仕事を引継いできたのだと感じます。戦や近代の戦争は、戦場で戦う兵隊や兵士、そして一般市民の命を犠牲にした金儲けのための松取り工作なのです。源頼朝が平氏打倒を大義にして挙兵し、山木館を襲撃したことも工作だったと見ています。

源平合戦の上層部は、松取り工作を成すために裏で手を握っていたのです。その客観的な証について《能登半島の鰐埼から繋がった松取り工作で源義経と通じていた平時忠》で言及しています。源頼朝の義弟である源義経は、源氏の松取り部隊長だったと捉えています。一方、平氏の裏の松取り部隊長が平時忠でありました。

源平の裏のトップの源義経と平時忠は、通じていたのです。自然豊かな土地で、支配層の松取り工作の戦が行われることで、その地の光の精霊が闇に変わり深い闇の地に成ります。その多くの闇の精霊が大きな闇のエネルギーを利用して、支配層の人間が思い通りの支配の世界を構築してきたのです。

人の魂の光と土地の自然の光を闇に変えて封印するのが松取り工作です。支配層にとって人命を金に換えるための大きく深い闇となります。闇に変えられた人と土地を祈りを通じて本来の姿に戻すことが重要になります。加藤景廉公一族の墓(五輪塔)の場所で、加藤景廉と一族の人たちの御魂が光に還るよう目を閉じて純粋に祈りました。

光の柱が立つようにイメージをして光を降ろすと「いいと思う。実際は歴史とは違っている。加藤景廉さんは、祭上げられた人みたい」と伴侶が伝えてきました。やはり、加藤景廉は、源頼朝などの支配層の現場工作の仕事を担っていたのだと思います。光を降ろしている時に、比較的強い風が吹いて、龍が来ていることが分かりました。

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posted by 地球の子 at 16:40| 静岡県 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする