2025年09月10日

千葉 支配層の重要工作拠点となった歴史を持つ日蓮宗寺院の法華経寺 〜巡礼の旅(770)〜

「千葉県市川市の日蓮宗寺院・法華経寺について、夜の奇声のサインが生じた。法華経寺は、伏在断層の東京湾北縁断層の上に置かれていた。断層を封じて闇にする役割だった。歴史的にも、支配層の松利権・性的人身売買・精神科病院の闇など複合的な闇の役割を成していた。」

千葉県市川市にある「法華経寺(ほけきょうじ)」が気になっていました。法華経寺は、セッションを受講したクライアントの方の家族が縁のあった日蓮宗の寺院です。鬼子母神を祀っている生贄・松取りの闇が絡む場所であり、徳川の深い闇が関係していると感じていました。

Nakayama_sanmon.JPG

セッションのあった日の夜、寝ていた私は、うなされて奇声を発していました。また、目が覚めると腰痛に見舞われていました。経験的に、夜中にうなされて大声を出すことは、目に見えない闇のエネルギー体が近くにいたことを意味するサインです。市川市の法華経寺は、私の過去世の闇を解除・統合する場所だと感じました。

翌日、伴侶に見てもらいながら自分の闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「黄色」と伝えられました。「黄色」は、隠す闇を意味します。具体的には、真実を隠蔽して暗闇にするために嘘や工作が成されて来たことを示唆します。過去のワークで、創価学会や日蓮宗寺院の関係から法華経寺の境内には、光を降ろしていました。

詳細は《静岡 創価学会の三色旗から繋がるプレアデスの分離の縮図 〜巡礼の旅(638)〜》にあります。また、過去のヒプノセラピーでは、日蓮宗、鬼子母神、カーリーなど法華経寺に関わる闇について言及されていました。具体的には、《権力者を操っていた裏天皇のエネルギー体の統合》《「闇を破壊する」》《「ハトはドラコ。騙す闇」》の記事に詳細が記述されています。

法華経寺は、過去世の私が深く関係した寺院であり、今回、法華経寺についての詳細な調査とワークを行う必要性を感じました。また、各地の断層の調査とワークを行っていた中で、千葉県市川市にある法華経寺は、千葉県北西部の市川市と船橋市の境界付近から千葉市に至る長さ約22kmの伏在断層の「東京湾北縁断層」の上にある寺院だと分かりました。

断層は、マグマの光が解放される場所であり、本来、光の火の精霊が放出されるポイントです。断層の周辺で生贄や松取りが行われることで光の精霊が闇に反転して深い闇の場所に変えられてきました。法華経寺は、この東京湾北縁断層を闇にして封印する役割の寺院だったと理解しています。

千葉県市川市、船橋市、千葉市が過去のワークの経験から深い闇の場所になっていると分かっていました。闇で封印された東京湾北縁断層を開いて、本来のマグマの光のエネルギーが放出される場所に戻す必要があります。法華経寺と共に東京湾北縁断層を開くための調査とワークを進めていきました。

まず、法華経寺から始めました。法華経寺の歴史・沿革を含めた情報はwikiに記載されています。『法華経寺は、千葉県市川市中山二丁目にある日蓮宗大本山の寺院である。鎌倉時代の文応元年(1260年)創立。中山法華経寺(なかやまほけきょうじ)とも呼ばれる。山号は正中山(しょうちゅうざん)で、所在地名である中山の由来になったとの説もある。

[概要]中山三法類(親師法縁、達師法縁、堺法縁)の縁頭寺であり、日蓮の説法と安息の地である。境内の鬼子母神も広く信仰を集め、江戸三大鬼子母神に含まれる。日蓮の書跡「観心本尊抄」、「立正安国論」は国宝、境内建造物の多くは重要文化財に指定されている。日蓮はその布教活動の中で幾度と無く迫害を受けた。

しかし、その際千葉氏に仕えていた富木常忍や大田乗明は管轄していた八幡荘に日蓮を迎え入れ保護した。特に千葉氏の被官であった富木常忍は、日蓮のために若宮の自邸に法華堂を造営し安息の場を提供するとともに、文吏であったため紙筆を提供してその執筆を助けた。当寺に多くの日蓮の遺文が遺されているのはその縁であると言われている。

当寺を中心に門前町が広がり、正月や節分の際は大勢の参拝客で賑わう。[歴史]弘安5年(1282年)に日蓮が没した後、常忍は出家し自邸の法華堂を法花寺と改め初代住持・常修院日常となり、日蓮の有力な檀越であった大田乗明の子日高は、父の屋敷を本妙寺とし2代目住持となった。

そして八幡庄の領主であり旧主である千葉胤貞の帰依を受け俗別当に迎え、胤貞猶子の日祐を3代目住持とした。だが、肥前国小城郡においては胤貞の弟胤泰が九州千葉氏として存続したものの、下総国では敵対関係にあった貞胤流千葉氏が台頭し、胤貞流の千田氏は衰退して当寺も危機を迎えた。

そのようななか、日祐は室町幕府との関係を強めこれを乗り切り、ここを拠点とする中山門流が成立することになった。日高以来代々の住持は本妙寺と法花寺の両寺の兼務が慣わしとなっていたが、天文14年(1545年)古河公方足利晴氏より「諸法華宗之頂上」という称号が贈られ「法華経寺」という寺名が誕生した。

法花寺と本妙寺の両寺を合わせた一つの寺院になった。1945年(昭和20年)2月25日、アメリカ軍の空襲により、門前に焼夷弾が着弾。周囲の民家が全焼した。[沿革]・文応元年(1261年)開基 ・昭和21年(1946年)126世宇都宮日綱上人代に一部末寺と共に日蓮宗を離脱し「中山妙宗」を立ち上げる。

離脱の理由は、法華経寺は本来日蓮宗とは教義と信仰が異なる独立したものが明治6年の教部省達第四号(各宗教導職管長一名を置き、末派寺院の取締を為さしむる件)により日蓮宗に所属させられたものであり、敗戦で宗教の自由に対する制限がなくなったので離脱したい、というもので、中山妙宗に所属する宗教法人法華経寺として登記した。

宇都宮日綱は妙香寺(横浜市)の元住職で東京博善の元社長。・昭和47年(1972年)132世武井日進上人代に日蓮宗に復帰する。武井日進(1906-1983、武井敬三)は佐藤栄作の親衛組織「TKプロダクション友の会」を組織した武井組の組長で、法華経寺宗務総長の傍ら全日本愛国者団体会議議長や武井睦会相談役、愛国誠友会の最高顧問などを務めていた。

武井睦会は、テキ屋で組織された武井一家の親睦団体である。また、愛国誠友会は、山口組系城滝組組長福富勇が右翼転向をはかって組織した任侠系団体である。[旧末寺]日蓮宗では昭和16年(1941年)に本末を解体したため、現在では、旧本山、旧末寺と呼びならわしている。法華経寺は300以上の末寺を有したという。

[中山法華経寺事件]天保12年(1841年)、この寺の24歳と71歳の僧が大奥の奥女中を含む多くの婦女を騙し、肉体関係だけでなく貴重品も取って奢侈に耽るなどし、僧侶にあるまじき行状として幕府の耳に入った。大奥の綱紀粛正を進めていた老中水野忠邦は内偵ののち風聞書を作成して寺社奉行の阿部正弘に提出。

寺社奉行の調査の結果、日尚と日啓という2名の僧が逮捕された。自白によると、老僧日啓は30年前から計30人ほどと関係があったことがわかった。日啓には遠島、日尚には晒(刑罰)の上、触頭引き渡しが言い渡された。日啓の実娘と言われる徳川家斉の側室専行院や奥女中たちも関わっていたがそれに触れずうまく裁いた。

それ故に、この一件で弱冠22歳の阿部正弘は名声を上げた。[中山療養院]日蓮が伝えた祈祷・修法があり、古来より参籠者が絶えずあった。その中には精神病者も少なくなかったことから、古くより寺内に病者を収容して、信仰読経により治療していた。参籠する信者と病者は参籠所や修法所に宿泊し、祈祷・水治(頭から井戸の水をかぶる)・修法を受ける。

参籠所は明治25年(1892)頃に造られた木造平屋の建物で、13室あり、病者には家人が付き添った。祈祷は刹堂の広間で大太鼓と読経で行なわれた。監督は刹堂の管理人のほか、寺内の各住職が月替わりの輪番で行なった。時代の要請で在来の処置のみでは医師法に違反するとして明治42年(1909年)に県に申請して刹堂の裏手の丘に中山療養院を建設することにした。

大正6年(1917年)に完成、医師による障害者の保護治療を開始。大正10年(1921年)、本山の手を離れ、精神科医と壇徒の共同経営に移り、中山脳病院と改称、昭和23年(1948年)に中山病院と改称、昭和27年(1952年)に医療法人静和会中山病院となる』。法華経寺-wikiの歴史を見ると、支配層の松利権、性的人身売買の闇が絡んでいると感じます。

また、その周辺で現場仕事を成すサンカ・同和・反社の工作員の存在があったことが窺えます。昭和21年(1946年)一部末寺と共に日蓮宗を離脱し「中山妙宗」を立ち上げた、宇都宮日綱は妙香寺 (横浜市)の元住職で東京博善の元社長です。東京博善は、明治以降に構築された遺体や火葬が絡む支配層の松利権の中核の企業です。

東京23区の火葬場6箇所を持つ東京博善の創業者・木村荘平と力を貸した初代警視総監・川路利良》にありますが、東京博善は、東京都内の火葬場を有して、遺体や火葬が絡んだ支配層の松利権の闇が潜んでおり、支配層・八咫烏の松システムの中核となる闇の仕組に繋がっていることが分かっています。

寺院は神社と同様に、支配層の隠されてきた松取り場としての闇の役割の場所でした。法華経寺は、想像以上に明治以降の日本の松システムの重要な役割を担ってきたと感じます。また、中山法華経寺事件は、美人局(つつもたせ)や女スパイが関係する大奥が絡んだ工作の闇が潜んでいると見ています。

さらに、中山療養院は、現代の精神科病院の闇の源流になっていたと見ています。《国際ハッカー集団に攻撃対象と名指しされた全国最大規模の精神科病院・都立松沢病院》にありますが、都立松沢病院などの精神科病院は、支配層の隠された工作拠点になってると推察します。

医療の薬剤効果とデータ収集のための人体実験、人を操る遠隔操作、裏の金儲けとなる松取り(松果体収穫)など、密室で複数の工作が成される医療機関となっています。こうしたことから、法華経寺は、支配層にとって重要な工作拠点になってきたと捉えています。闇の役割を終わりにするためにも、法華経寺の歴代の住職に光を降ろしていきました。

まず、開山(かいざん)で法華経寺初代貫首の「常修院日常(富木常忍・ときじょうにん)」をワーク対象に選びました。死去した人の留まっている魂に対して、祈りを通じて光に還すことが闇を光に還すポイントの1つになります。「開山」とは、仏教用語で、寺院を創始すること、またはその寺院を創始した僧侶を指します。富木常忍の経歴はwikiに記載されています。

『富木常忍(1216年-1299年)は、鎌倉時代の下総国の豪族、法華宗(日蓮宗)の僧。号は日常、常修院。因幡国の出身。中山門流の祖師とされる。[略歴]下総国守護千葉氏の被官で、下総国八幡荘若宮に住んだ。建長5年(1253年)、日蓮の法華宗義に帰依し、下総における日蓮門下の有力な信者となった。

その識字力の高さなどを見込まれて「観心本尊抄」をはじめ多くの著作や書状を日蓮から送られた。常忍は佐渡へ配流された日蓮を援助したうえ、養子の日頂を入門させて法華経の活動を支えた。建長7年(1255年)、若宮の自邸内に法華堂を建立し、文永11年(1274年)に寺号を法華寺とした。弘安5年(1282年)、日蓮の没後に出家して日常と号した。

晩年は日頂との間に軋轢が生まれ、日蓮の遺文の収集につとめ、その目録を「常修院本尊聖教事」として纏めた。天文14年(1545年)、太田乗明が建立した本妙寺と法華寺が合併し、法華経寺となった。その門流はのちに、中山門流と称される日蓮宗の中でも有力教団に発展する。なお、法華経寺に遺された日蓮の遺文の中には千葉氏関係の紙背文書が含まれている。

これは、当時紙が貴重であったために日蓮が千葉氏の行政官人であった常忍より、不要となった文書を譲り受けてその裏面に執筆したからであると推定されている』。法華経寺初代貫首の常修院日常(富木常忍)の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「工作員」と伝えられました。寺院は古くから支配層の松取り場所の役割でした。

お祭りなどのイベントを催して、信者や人々を大勢集めて、子どもや女性をさらうことで松取りの犠牲にしてきました。支配層の松工作場所である寺院のトップの住職は、自ずと支配層の工作員の役割を成すことになります。次に、法華経寺の中興で、法華経寺3代目貫首の日祐(にちゆう)をワーク対象に選びました。

日祐の経歴はwikiに記されています。『日祐(1298年-1374年)は、鎌倉・南北朝時代の日蓮宗の僧。千葉胤貞の猶子。下総国の出身。号は浄行院。経歴 日祐は千葉氏一族の子と伝えられ、千葉胤貞の猶子となる。胤貞の庇護下にあった日高に師事し、正和3年(1314年)に中山本妙寺兼若宮法花寺(現在の法華経寺)3世貫首となった。

千葉胤貞流の千田氏・九州千葉氏の外護を受けて、房総を中心として勧進・結縁活動にあたり、日本寺をはじめ、千田荘・八幡荘・臼井荘の各地に寺院を建立した。また日祐は、毎年のように甲斐国・身延山久遠寺の日蓮墓所に参詣し、久遠寺3世・日進と親交を深めて両寺院の発展に貢献した。

更に、天皇及び将軍(室町幕府)への奏聞のためにたびたび上洛を行い、千葉胤貞が肥前国小城郡に所領を持つと、現地に赴いて光勝寺の開山となった。日祐は、日常(法華経寺初代)・日高(法華経寺2世)が遺した日蓮真蹟である遺文の保存・整理に努め、更なる蒐集にも尽力した。

また、法華経の転読・写経の繰り返しや日蓮の教義に対する研究を深めて、「問答肝要抄」「宗体決疑抄」などを著した』。法華経寺3代目貫首の日祐の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「工作員」と伝えられました。個人的には、八咫烏鶴派の工作員の役割だったと見ています。

【関連記事】
生贄・食人を連想する「千葉バラバラ女性遺体事件」と悪魔崇拝儀式の闇も浮かぶ「札幌すすきの首切断事件」
千葉 麻賀多神社 〜巡礼の旅(317)〜
千葉 眠りに繋がる重たいアスファルトの闇が覆う小湊と房総半島の海岸線ワーク 〜巡礼の旅(635)〜
posted by 地球の子 at 13:29| 千葉県 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする