千葉県市川市中山にある日蓮宗大本山の寺院・法華経寺(ほけきょうじ)のWikipediaには、「中山法華経寺事件」の記述があり、気に成りました。『天保12年(1841年)、この寺の24歳と71歳の僧が大奥の奥女中を含む多くの婦女を騙し、肉体関係だけでなく貴重品も取って奢侈に耽るなどし、僧侶にあるまじき行状として幕府の耳に入った。
大奥の綱紀粛正を進めていた老中水野忠邦は内偵ののち風聞書を作成して寺社奉行の阿部正弘に提出、寺社奉行の調査の結果、日尚と日啓という2名の僧が逮捕された。自白によると、老僧日啓は30年前から計30人ほどと関係があったことがわかった。日啓には遠島、日尚には晒 (刑罰)の上、触頭引き渡しが言い渡された。
日啓の実娘と言われる徳川家斉の側室専行院や奥女中たちも関わっていたがそれに触れずうまく裁いたとして、この一件で弱冠22歳の阿部正弘は名声を上げた』。「中山法華経寺事件」は、法華経寺と大奥が関係する性的人身売買の闇が絡む事件だったと感じます。wikiに書かれたことの全てが真実ではなく、勧善懲悪スタイルの裁きのように見せていると捉えています。
そこには、支配層の闇が絡む工作が関係するヒントがある理解しています。2024年9月のヒプノセラピーセッション《大奥のハニートラップ部門を任されていた江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠》では、江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠が大奥をハニートラップの工作部門として利用するために束ねていたことが伝えられました。
セッションの概要は、以下の通りです。『徳川秀忠は、野鳥や子どもを矢で射る鷹狩について何も思っていない。徳川家以外は人間じゃないと感じていた。光に還った方がいいな。嫌だったんだよ。こんな家。異常だった。右に習えでやっていた。敷かれたレールを言った方がいい。政治もやりたくなかった。
ハニートラップ部門を任されていた。女性を配下にして仕事していた』。支配層は、大奥と同様に、日蓮宗の寺院である法華経寺を隠れ蓑として裏工作に利用していたと推察します。「中山法華経寺事件」の関係者の調査とワークを行っていきました。法華経寺の僧侶の日啓(日純)、江戸幕府の老中の水野忠邦、寺社奉行の阿部正弘の3人をワーク対象に選びました。
法華経寺の僧侶の日啓(日純)の経歴はwikiに記されています。『日純は江戸時代後期の僧侶。日蓮宗法華経寺貫首。別名は日啓。 江戸幕府第11代将軍徳川家斉の寵愛を受けた側室専行院の実父として知られる。[生涯]元は正栄山仏性寺の役僧で、後に中山法華経寺の智泉院の住職となったとされている。
中野家の菩提寺が当時日啓が役僧を務めていた仏性寺であったことが縁となり、娘の伊根(後の美代)は駿河台の中野清茂の屋敷へ奉公に上がったが、のち清茂の養女として大奥へ奉公に上がった。将軍家斉の寵愛を受けるようになった娘の美代は日純が住職を務める智泉院を将軍家の御祈祷所にした上、普段は外出を許されない大奥の女中たちを、お参りを口実にして智泉院へたびたび息抜きに訪れさせるように仕向けた。
智泉院では訪れる大奥女中たちを夢中にさせ、何度も再訪させようと、若い美僧を揃えて接待役にしたと伝わる。この智泉院での大奥の女性たちの若い僧との密会・遊興は次第にエスカレートし、問題視された。尚、これまで上記と同様のことが、お美代が家斉にねだって建てさせ、日啓が住職を務めていたとされる感応寺でも行われていたと信じられてきた。
しかし、これは大谷木醇堂の「燈前一睡夢」で智泉院での密通事件と感応寺破却の一件が混同され、また同書を参考にした三田村鳶魚の著書によって流布された誤解であるとされる。日純が感応寺の住職になったという事実はなく、感応寺は池上本門寺の末寺として成立した寺であり、法系が異なる中山法華経寺の日純が住職になるのはあり得ないとして、現在では否定されている。
12代将軍徳川家慶が政治を行うようになると、老中首座の水野忠邦が天保の改革を開始し、手始めに家斉のいわゆる「大御所時代」に頽廃した綱紀の粛正に乗り出した。忠邦は寺社奉行阿部正弘に命じ、智泉院の摘発を行い(智泉院事件)、住職であった日純は捕縛され、遠島に処された(刑執行前に獄死)』。
日啓(日純)のwikiに出て来る「池上本門寺」についても、過去に調査とワークを行っており、支配層・創価学会の工作拠点の役割を担っていたことが分かっています。詳細については、《スマホに届いた中国語風の宇宙人の謎のメッセージから繋がった日蓮宗寺院の「朗生寺」と「池上本門寺」》と《八咫烏の重要工作員の拠点としての池上本門寺と松果体収穫場のカモフラージュとしての池上梅園》で言及しています。
日啓(日純)の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「金」と伝えられました。金の闇に覆われた拝金主義の僧侶だったようです。江戸幕府の老中首座の水野忠邦の経歴はwikiに記載されています。『水野忠邦は、日本の江戸時代後期の大名、江戸幕府老中。肥前国唐津藩主、のち遠江国浜松藩主。天保の改革の指導者。
[生涯]〈出生・唐津・浜松藩主時代〉寛政6年(1794年)6月23日、唐津藩第3代藩主・水野忠光の次男として生まれる。母・恂は風月堂初代喜右衛門の養女で、忠邦を生んだあと風月堂へ戻り二代喜右衛門の妻となったため、忠邦と三代風月堂は異父兄弟となる。長兄の芳丸が早世したため、文化2年(1805年)に唐津藩の世子となる。
2年後の同4年(1807年)に第11代将軍・徳川家斉と世子・家慶に御目見する。そして従五位下・式部少輔に叙位・任官した。文化9年(1812年)に父・忠光が隠居したため、家督を相続する。忠邦は幕閣として昇進する事を強く望み、多額の費用を使っての猟官運動(俗にいう賄賂)の結果、文化13年(1816年)に奏者番となる。
忠邦は奏者番以上の昇格を望んだが、唐津藩が長崎警備の任務を負うことから昇格に障害が生じると知るや、家臣の諫言を押し切って翌文化14年(1817年)9月、実封25万3,000石の唐津から実封15万3,000石の浜松藩への転封を自ら願い出て実現させた。この国替顛末の時、水野家家老・二本松義廉が忠邦に諌死をして果てている。
また唐津藩から一部幕府領に召し上げられた地域があり、地元民には国替えの工作のための賄賂として使われたのではないかという疑念と、幕府領の年貢の取立てが厳しかったことから、後年まで恨まれている。この国替えにより忠邦の名は幕閣に広く知れ渡り、これにより同年に寺社奉行兼任となる。
幕府の重臣となったことで、むしろ他者から猟官運動の資金(賄賂)を受け取る立場となり、家臣たちの不満もある程度和らげる事ができた。その後、将軍・家斉のもとで頭角を現し、文政8年(1825年)に大坂城代となり、従四位下に昇位する。文政9年(1826年)に京都所司代となって侍従・越前守に昇叙し、11年に西の丸老中となって将軍世子・徳川家慶の補佐役を務めた。
天保5年(1834年)に水野忠成が病没したため、代わって本丸老中に任ぜられ、同8年(1837年)に勝手御用掛を兼ねて、同10年(1839年)に老中首座となった』。水野忠邦が主導した天保の改革は、一般大衆の支配を強化することで混乱を生じさせたと感じます。江戸幕府の老中首座の水野忠邦の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「半島」と伝えられました。
八咫烏亀派の工作員の役割だったようです。寺社奉行の阿部正弘の経歴はwikiに記されています。『阿部正弘は、江戸時代末期の備後国福山藩の第7代藩主。江戸幕府の老中首座を務め、幕末の動乱期にあって安政の改革を断行した。阿部宗家第11代当主。[生涯・出生]文政2年10月16日(1819年12月3日)、第5代藩主・阿部正精の5男として江戸西の丸屋敷で生まれた。
文政9年6月20日(1826年7月24日)に父・正精が死去して兄の正寧が家督を継ぐと、正弘は本郷(文京区)の中屋敷へ移った(現在でも中屋敷のあった文京区西片には文京区立誠之小学校、西片公園(阿部公園)など、由来する施設が残っている)。しかし正寧は病弱だったため、10年後の天保7年(1836年)12月25日、正弘に家督を譲って隠居した。
天保8年(1837年)、正弘は福山へのお国入りを行った。正弘が国元へ帰ったのはこの1度のみである。天保9年(1838年)9月1日、奏者番に任じられる。天保11年(1840年)5月19日には寺社奉行見習に、11月には寺社奉行に任じられ、感応寺の破却などを行なっている。大奥と僧侶が徳川家斉時代に乱交を極めていた事件が、家斉没後に寺社奉行となった正弘の時代に露見した。
正弘は家斉の非を表面化させることを恐れて僧侶の日啓や日尚らを処断し、大奥の処分はほとんど一部だけに限定した。この裁断により、第12代将軍・徳川家慶より目をかけられるようになった』。後に、江戸幕府の老中首座になった阿部正弘には、個人的にも縁があります。江川英龍の過去世の時に伊豆代官などに登用した人物が阿部正弘でした。
wikiには、『幕政においては、弘化2年(1845年)から海岸防禦御用掛(海防掛)を設置して外交・国防問題に当たらせた。また、薩摩藩の島津斉彬や水戸藩の徳川斉昭など諸大名から幅広く意見を求め、筒井政憲、戸田氏栄、松平近直、川路聖謨、井上清直、水野忠徳、江川英龍、ジョン万次郎、岩瀬忠震など大胆な人材登用を行った』と記されています。
阿部正弘の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「創価」と伝えられました。やはり、江川英龍と同様に、支配層の創価工作員の役割を担っていたようです。次に、法華経寺に関連する「中山療養院」について追っていきました。法華経寺-wikiには、「中山療養院」について次のように記述されています。
『日蓮が伝えた祈祷・修法があり、古来より参籠者が絶えずあった。その中には精神病者も少なくなかったことから、古くより寺内に病者を収容して、信仰読経により治療していた。参籠する信者と病者は参籠所や修法所に宿泊し、祈祷・水治(頭から井戸の水をかぶる)・修法を受ける。
参籠所は明治25年(1892)頃に造られた木造平屋の建物で、13室あり、病者には家人が付き添った。祈祷は刹堂の広間で大太鼓と読経で行なわれた。監督は刹堂の管理人のほか、寺内の各住職が月替わりの輪番で行なった。時代の要請で在来の処置のみでは医師法に違反するとして明治42年(1909年)に県に申請して刹堂の裏手の丘に中山療養院を建設することにした。
大正6年(1917年)に完成、医師による障害者の保護治療を開始。大正10年(1921年)、本山の手を離れ、精神科医と壇徒の共同経営に移り、中山脳病院と改称、昭和23年(1948年)に中山病院と改称、昭和27年(1952年)に医療法人静和会中山病院となる』。仏教や神道を含めた宗教における修行は、ある意味、宗教自体が闇の役割です。
闇のエネルギーと密に接することで、闇の影響を受けて、精神を病むことがあると感じます。闇のエネルギーの根源は、亡くなった人の魂が闇になった死霊や闇の精霊を含めた魑魅魍魎の闇と捉えています。この闇の根源となる闇のエネルギーを光に統合して光のエネルギーに変えるか、終わらせることが重要になります。
中山療養院が源流となる「医療法人静和会中山病院」を追っていきました。中山病院の情報は公式サイトに掲載されています。『病院名:医療法人静和会 中山病院 所在地:千葉県市川市中山2-10-2 開設者:理事長 作田暢子 管理者:院長 作田 慶輔 開設日:昭和27年9月1日 標榜科:精神神経科、心療内科、老年神経内科、内科
許可病床数:337 床(精神一般病棟/ 29 床(措置指定病床 3床)、精神療養病棟/ 143 床、認知症治療病棟/ 165 床) 医師数:常勤医師 7 名 非常勤医師 22 名(2025年1月現在)』。現在では、病院などの医療機関が、支配層の松利権工作拠点の役割となっています。中山病院の院長・作田慶輔の経歴は、公式サイトに記されています。『専門分野:精神医学一般 学会専門医・認定医:精神保健指定医、医学博士
略歴:2006年東京医科大学卒 2020年東京医科大学精神医学講座兼任講師 2021年中山病院 副院長 2025年中山病院 院長』。中山病院の院長・作田慶輔、所在地(千葉県市川市中山2丁目9)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「中国。反社」「いいです」と伝えられました。法華経寺の関連対象は、中国派の八咫烏鶴派の工作勢力に属すことが分かります。
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