3月20日(木)、午前8時半過ぎ、ホテルを出発して鶴ヶ城(若松城)に向かいました。車で5分程走って、城址公園の駐車場に到着しました。鶴ヶ城は、1868年、薩摩藩、長州藩を中心とする明治新政府軍と、会津藩および奥羽越列藩同盟などの徳川旧幕府軍との間で行われた戦いである会津戦争が繰り広げられた舞台です。

駐車場に車を停めて、二の丸とお堀の間の通りを鶴ヶ城内に歩いて行きました。廊下橋を渡って本丸の城址に入りました。鶴ヶ城天守閣の左手に鶴ヶ城稲荷神社がありました。私たちは注意深く観察しながら石段を登って行きました。私は社殿の前でこの地を開きに来た旨を伝え、社全体に光の柱を降ろしました。狐の番人たちは天に還って行きました。
社殿の右手に気になる木がありましたので、そこにも光を降ろしました。「龍神が出てきた」と伴侶が教えてくれました。鶴ヶ城本丸の場内にはもう一つの稲荷社がありました。笠間稲荷神社が天守閣の後方に置かれていました。番人の狐たちに宣言して、光に還るように伝えました。社殿全体に光を降ろしました。番人たちは昇天しました。
「昔の武将の人がいる」と伴侶が教えてくれました。この地で命を落とした人々の御魂が光を希望していると感じて、私は鶴ヶ城の天守閣に大きな光の柱を降ろしました。「ありがたい、ありがたいと言ってお侍さんが昇って行った」と彼女が伝えてきました。戊申戦争における会津戦争にて、無念の思いを残して肉体の命を失った多くの魂が昇天して行ったのです。
私たちは鶴ヶ城の解除を終えて、次に飯盛山にある白虎隊の墓に向かいました。車で15分程で駐車場に到着しました。長い石段を上る代わりに、エスカレーターで上って行きました。白虎隊は、会津戦争に際して会津藩が組織した、16歳から17歳の武家の男子によって構成された部隊です。
会津戦争の際、白虎士中二番隊の20人が戸の口原合戦場から退却し、滝沢峠の間道を通り、戸の口堰の洞門をくぐり飯盛山に辿り着くと、鶴ヶ城の天守閣は黒煙の中に見え隠れして、「城は陥落したか、今は主君のために殉じよう」と、全員が自決したといいます。頂上には、白虎隊十九士の墓には、19人の石碑が供えられていました。
白虎隊十九士の墓にお参りをして、彷徨える御魂が天に還ることができるように光を降ろしました。飯盛山を少し降りると戸ノ口堰水(とのくちせきすい)神社がありました。御祭神は、美都波能女命(みずはのめのかみ)といいます。戸ノ口堰洞穴が右手にあり、堰水を守るための水神をお祀りしているようでした。私は社殿全体に光の柱を降ろしました。
「玉が取れて、虹の龍神が出て行った」と伴侶が教えてくれました。虹の龍神は、闇が深いために、飯盛山全体に光の絨毯を敷き詰めて行ったのです。私たちは、飯盛山の浄化と解除を終えて、猪苗代湖の湖畔にある小平潟天満宮に向かいました。約40分程、車を走らせて、小平潟(こびらがた)天満宮の駐車場に到着しました。
伴侶と一緒に札幌から同行して来た虹色に輝く宇宙系の龍神は猪苗代湖で放たれると感じていました。小平潟天満宮の境内に入って行き、境内を散策しました。社殿は修繕中でした。拝殿の前で、私はこの地を開きに来た旨を宣言しました。社殿の左側に古い祠があり、光の柱を降ろしました。
「宇宙の龍神が湖の方に飛んで行った。虹の龍神が猪苗代湖に虹を敷き詰めている。二頭で一緒に遊んでいるみたい」と伴侶が教えてくれました。やはり、宇宙の龍神は猪苗代湖で放たれたのです。小平潟天満宮の解除を終えて、私たちは紫雲寺に行くために、再び、会津若松市に向かいました。45分程車で走って現地に着きました。
紫雲寺は曹洞宗の寺院であり、会津に棲んでいた龍と越後から飛来した龍が激しく戦ったという伝説があるといいます。山門をくぐり境内に入ると左手に池がありました。石碑と石仏があり、私は宣言して光の柱を降ろしました。「沢山のチビ龍が解放された」と伴侶が教えてくれました。龍神の子供たちが自由になったのです。
紫雲寺を後にして、次に田中稲荷神社に向かい、5分程で現地に到着しました。車を駐車場に停めて、私たちは境内を注意深く見て回りました。拝殿に向かって右手に多数の祠が置かれていました。かなりネガティブが空気が漂っていました。私は祠の方に向かって光の柱を降ろしました。「街の中央から玉が出てきた」と伴侶が教えてくれました。
私たちは2日間の福島巡礼の旅を終えました。東日本大震災は日本人が大切なものを気づくための出来事であり、日本が光輝く世界の中心になるきっかけとなります。被災した福島の地の再生なくして、日本の再生はありません。黄金色に輝く会津磐梯山と虹色に輝く猪苗代湖から福島全体に光が広がって行くことをお祈りしています。


