2015年01月18日

伊豆の国 北條寺 〜巡礼の旅(156)〜

早雲寺から一緒に来た、北条早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直、5名の小田原北条氏のエネルギー体が北条義時の墓前の前で、この地に留まることを終えて光に昇るよう説得し、「北条一門」と叫びながら北条義時のエネルギー体が昇天して行った、北條寺での浄化と解除

10月15日(水)、早雲寺を後にして、伊豆の国市の北條寺に向かいました。途中の箱根山を越える国道1号線沿いに曽我兄弟の墓があり、立ち寄ることにしました。大型観光バスが曽我兄弟の石塔の前に駐車していたので、少し離れた側道に車を停めました。曽我兄弟とは、曾我祐成(そがすけなり)と曾我時致(そがときむね)のことです。

houjyouyohsitokinohaka_convert_20150115181626.jpg

1193年6月、源頼朝が行った富士の巻狩りの際に、曾我祐成と曾我時致の兄弟が父親・河津祐泰(かわづ すけやす)の仇である工藤祐経(くどう すけつね)を討ちました。その後、曾我祐成は仁田忠常に討たれ、曾我時致は捕らえられ、後に斬首されたといいます。この歴史的事件は「曾我兄弟の仇討ち」として伝えられています。

小雨が降る中、私は車から降りて、曽我兄弟の御魂が光に還ることを意図して光を降ろしました。「涙を流しながら天に昇って行った」と伴侶が教えてくれました。それから、箱根山と箱根の土地が開かれることを意図して光の柱を降ろしました。「何人かの箱根の土地神様が解放された」と彼女が伝えてくれました。

20分程、車で移動して、北條寺に到着しました。北條寺は、伊豆の国市南江間にある臨済宗建長寺派の寺院です。鎌倉幕府二代執権・北条義時の創建と伝えられています。北条義時は北条時政の子で江間小四郎と称していたといいます。駐車場に車を停めて、小高い丘を登って北条義時の墓所に着きました。

北条義時の墓は、こじんまりした石塔でした。隣には妻の墓が置かれていました。「長い間、お疲れ様でした。どうか全ての思いを手放して光の世界に還ってください」と私は伝えました。「早雲寺から一緒に来た5名の人たちが、義時さんの墓前に立って何か話している」と伴侶が教えてくれました。

早雲寺から一緒に来た、北条早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直、5名の小田原北条氏のエネルギー体は、先祖である北条義時に対して、この地に留まることを終えて、光に昇るよう説得しているようでした。小田原北条氏の5名の方々は、義時を始めとする鎌倉北条氏のカルマを解消する光の役割を担っていたと感じます。

北条義時と妻の御魂が光に還り、全ての北条氏の闇が光に変わることを意図して、私は光の柱を降ろしました。すると「北条一門・・と義時さんが叫んで昇天して行った」と伴侶が教えてくれました。小田原北条氏5名のエネルギー体も一緒に天に昇って行きました。北條寺を後にして、北條政子と義時の父・北条時政の墓がある願成就院を訪れました。  

山門の左手に北条時政の石塔がありました。時政の御魂が光に誘われるよう祈りながら光の柱を降ろしました。「さっきの北條寺で北条一門は光に還ったみたい。天からありがとうと伝えられた」と伴侶が教えてくれました。私たちは、北条一門の闇を光に誘って、ホッとした気持ちになりました。最後に伊豆の国市の地が開かれるよう光を降ろしました。

源平のカルマは神代に遡る時代からの2代勢力の対立の構図でした。平氏を倒した源氏が幕府を開き、源氏の執権の北条氏が源氏の世を終わらせました。北条氏は、平氏の流れの勢力だったのです。源氏と北条氏の闇が光に変わり、永続してきた源平のカルマの解消に近づいたと感じます。

伊豆の国市に生まれ、源氏ゆかりの三浦半島の葉山に生活している私にとって、一つの役目と感じていた源氏と北条氏の闇に光を当てることができ、ホッとした気持ちでした。私たちは、小田原、箱根、伊豆の国市の地が開かれて、光が広がっていくことを願いながら家路につきました。

【関連記事】
○和歌山 高野山奥の院 〜巡礼の旅(134)〜
○滋賀 比叡山延暦寺 〜巡礼の旅(116)〜
○山梨 身延山久遠寺 〜巡礼の旅(93)〜

posted by 地球の子 at 00:45| 静岡県 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする