2025年07月28日

イタリア フランスのロンシャン礼拝堂を所有するキリスト教カトリックの修道会・ドミニコ会 〜巡礼の旅(768)〜

「フランスのロンシャン礼拝堂の所有者は、イタリアに本部を置くキリスト教カトリック修道会のドミニコ会。イエスズ会と同様に日本の薩摩国と交流した歴史を持つ。キリスト教は、原始キリスト教を源流とする生贄・松取りの闇を引継いでいる。歴史上の聖人や現経営層の要人のワークから表に出せない重い大きな闇を抱えていることが分かる。」

世界遺産「ル・コルビュジエの建築作品-近代建築運動への顕著な貢献-」の構成資産の一つである「ロンシャンの礼拝堂」を設計・建設したのは、建築家のル・コルビュジエです。ル・コルビュジエの経歴は、wikiに記載されています。『ル・コルビュジエ(Le Corbusier・1887年- 1965年)は、スイスで生まれ、フランスで主に活躍した建築家。

2017-04_-_Ronchamp_-_03.jpg

本名はシャルル=エドゥアール・ジャヌレ=グリ(Charles-Édouard Jeanneret-Gris)。モダニズム建築の巨匠といわれ、特にフランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエと共に近代建築の三大巨匠として位置づけられる場合もある(ヴァルター・グロピウスを加えて四大巨匠とみなすこともある)』。

ロンシャンの礼拝堂設計者のル・コルビュジエ(Le Corbusier)の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「ロスチャ」と伝えられました。やはり、八咫烏鶴派・欧州・中国・ロスチャイルドの勢力の工作員の役割を担っていたようです。ロンシャンの礼拝堂は、カトリック ドミニコ会が所有する礼拝堂(聖堂)です。

カトリック ドミニコ会を追っていきました。ドミニコ会の情報はwikiに記されています。『ドミニコ会は、1206年に聖ドミニコ(ドミニクス・デ・グスマン)により立てられ、1216年にローマ教皇ホノリウス3世によって認可されたカトリックの修道会。正式名称は「説教者兄弟会」(Ordo fratrum Praedicatorum)で、略号は「OP」である。

彼らが羽織る黒い外套にちなんで「黒衣の修道会(Blackfriars)」とも呼ばれる。[ドミニコ会の誕生と発展]1206年、ドミニコの説教に共感した人々が集まり結成された。別名、説教者兄弟会。正式に認可されたのは1216年であり、この年が正式な結成日となっている。ドミニコ会は同時期に成立したフランシスコ会同様、清貧を特に重んじたため併せて「托鉢修道会」と呼ばれることがある。

また神学の研究に励み、学者を多く輩出したドミニコ会は異端審問の審問官に任命されることが多かったため、「ドミニコ会士 (Dominicanis)」をもじって「主の犬 (Domini canis)」とも呼ばれた。この呼び名は反対者にとっては畏怖と揶揄であり、ドミニコ会員たちにとっては誇りであった。

ドミニコ会における神学研究の伝統はアルベルトゥス・マグヌスとその弟子トマス・アクィナスを生み出すことで頂点に達した。他にもマイスター・エックハルトやシエナのカタリナ(女子信徒会)、バルトロメ・デ・ラス・カサスなど多くの有名会員を輩出している。19世紀の後半には反教会的な風潮に押されてドミニコ会は著しく衰退していた。

しかし、フランスから刷新運動が起こり、ヨーロッパとカナダへ波及した。またスペインの植民地だったフィリピンも中世以来ドミニコ会の重要な活動拠点となっており、現在にいたっている。[日本での活動]初めて日本を訪れたドミニコ会士は1592年にフィリピンから到来したフアン・コボ(Juan Cobo)であった。

彼はフィリピン総督の使節として来日し、豊臣秀吉に謁見した。フィリピン総督の書状を渡したコボは秀吉からの書簡を受け取って帰路についたが、台湾沖で遭難した。1600年、教皇クレメンス8世はそれまでイエズス会のみに認可されていた日本での宣教活動を正式にすべての修道会に認めた。

これを受けたマニラのドミニコ会員5名(フランシスコ・デ・モラレス(Francisco de Morales)、トマス・エルナンデス(Tomás Hernández)、アロンソ・デ・メナ(Alonso de Mena)、トマス・デ・スマラガ(Tomás de Zumárraga)、フアン・デ・ラ・アバディア(Juan de la Abadía)修道士)がスペイン船に乗って日本へ渡り、1602年、薩摩の甑島で最初の宣教活動を行った。

彼らは薩摩本国へも渡り、甑島と川内の京泊で宣教した。1606年には京泊に「ロザリオの聖母聖堂」を建立したが、1609年にはいると迫害が起こり、宣教師は薩摩から追放された。1612年に江戸幕府によってキリスト教禁制が公布されると、宣教師の活動は困難になったが、捕縛の危険を顧みずに各地で潜伏しながら信徒たちの世話を続けた。

ドミニコ会員たちも各地で活動したが、捕縛され、殉教するものが相次いだ。キリシタン時代に最後に日本に到来したドミニコ会員は1636年に来日したミゲル・デ・アオサラサ(Miguel de Aozaraza)ら3名であったが、彼らは翌年殉教している。ドミニコ会最初の邦人司祭は1619年にマニラで叙階されたヴィセンテ塩塚(1637年に殉教)であった。

こうしてドミニコ会員たちは日本から姿を消したが、彼らが日本で組織したロザリオの信心会(組)の信仰は隠れキリシタンの間に受け継がれることになる。明治以降、ドミニコ会員は再び来日することになる。現在は(日本管区というものはなく)東日本を担当するカナダ管区と西日本を受け持つロザリオ管区で地域を分担して司牧している』。

キリスト教カトリック修道会としては、日本にキリスト教を伝えたイエズス会が有名です。1549年(天文18年)9月に、伊集院城(現・鹿児島県日置市伊集院町大田)で薩摩国の守護大名・島津貴久に謁見、宣教の許可を得たイエズス会のフランシスコ・ザビエルです。イエズス会以外のドミニコ修道会などのカトリック修道会も薩摩国(現・鹿児島県)に影響を与えていたことが分かります。

ドミニコ会の設立者は、聖ドミニコ(ドミニクス・デ・グスマン)です。聖ドミニコの経歴はwikiに記載されています。『ドミニコ(Dominicus abl. Dominico・1170年 - 1221年)、グスマンの聖ドミニコは、ドミニコ会の創設者、カトリックの修道士、聖人。スペイン語名はドミンゴ・デ・グスマン・ガルセス(Domingo de Guzmán Garcés)。聖ドミニコとも称される。

[生涯]1170年に旧カスティーリャ地方の貧しい農村カレルエーガでフェリックス・デ・グスマンとフアナ・デ・アサ(フアナ・ガルセス)の子として生まれ、ドミンゴ・デ・シロスに因みドミンゴと名付けられた。ザクセンのヨルダン(Jordan von Sachsen)が著した伝記によれば、母福者ヨハンナはドミニコが胎内にいるときに犬の姿で松明(たいまつ)を銜(くわ)えて跳び出し、「全世界に火を放つ」夢を見たという。

この夢は中世にはドミニコ会をDominicans→Domini canes(主の犬)とする洒落のように考えられた。6歳から母方の叔父が首席司祭を務める教会で勉強した。14歳から28歳まで(1184年 - 1198年)パレンシアに住み、のちにパレンシア大学へと発展するパレンシアの学校で、6年間人文科学と哲学を、4年間神学を学んだ。

しかし飢え渇く貧しい人々がいるなか、勉強ばかりしていられないと思い立ち、ドミニコは自分の持ち物をすべて施した。そのなかには聖書もあった。意欲に燃えてアナトリアへの伝道を教皇に申し出て、司教とともにカタリ派のはびこるラングドック地方に送られた。そこでカトリックの伝道は異端と同様の熱情と厳格主義が必要と悟り、清貧の生活に入る。

この頃、異端の信者たちをどうにか回心させたいと祈っていたところ、聖母マリアが現れてドミニコにロザリオを渡したという逸話が存在する。そのためドミニコ会がロザリオの普及に貢献したとも言われている。ドミニコは南フランス、スペインを旅して説教してまわり、回心する者はたちまち増えた。同時にドミニコに共感する者たちも集まるようになり、1216年にドミニコ会(説教者兄弟会)を結成した。

1216年に教皇ホノリウス3世に認可される。(認可された年が正式な結成日となっている)ある日、ドミニコは夢で天国を訪問した。しかしドミニコ会の者が誰もいなかった。嘆き悲しんでいると、聖母マリアが現れドミニコ会の会員たちが自分のマントの中(聖母の保護を表す)にいることを告げたという。三度司教になるよう勧められるがすべて拒み、司祭のまま1221年に死去。

ドミニコの生涯は真理を求める一生であり、その説教は真理に基づいた説教だったと伝えられている。また、その生活は大変貧しかったという。死後の1234年、聖人に列せられた』。ドミニコ会の設立者・聖ドミニコ(ドミニクス・デ・グスマン)の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「重い人」と伝えられました。エネルギーが重く大きな闇に成っている感じです。

《児童福祉に貢献した岡山四聖人に隠された原始キリスト教の闇と岡山に生まれた八咫烏の始祖・吉備真備》にありますが、生贄(悪魔崇拝)や松取り(松果体収穫)の源流は、宇宙人のアヌンナキが降ろした原始キリスト教です。純粋な魂を持つ先住民の人たちの魂の光を採取するために、原始キリスト教という隠れ蓑をつくり、生贄を行ってきました。wikiに掲載されたドミニコ会の歴史的な重要人物3人をピックアップしました。

アルベルトゥス・マグヌス(Albertus Magnus)、トマス・アクィナス(Thomas Aquinas)、シエナのカタリナ(Santa Caterina da Siena)です。アルベルトゥス・マグヌスの経歴はwikiに記されています。『アルベルトゥス・マグヌス(Albertus Magnus・1200年頃-1280年・ケルン)は大聖アルベルト(Saint Albert the Great)、ケルンのアルベルトゥスとも呼ばれる13世紀のドイツのキリスト教神学者である。

またアリストテレスの著作を自らの体験で検証し注釈書を多数著す。錬金術を実践し検証したこともその一端である。カトリック教会の聖人(祝日は命日にあたる11月15日)で、普遍博士(doctor universalis)と称せられる。トマス・アクィナスの師としても有名である。ピウス10世によって教会博士の称号を与えられている』。

アルベルトゥス・マグヌスの御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「術師」と伝えられました。術を使って人を操る能力があったようです。トマス・アクィナスの経歴はwikiに記載されています。『トマス・アクィナス(Thomas Aquinas・1225年頃-1274年)は、中世ヨーロッパ、イタリアの神学者、哲学者。シチリア王国出身。ドミニコ会士。

「神学大全」で知られるスコラ学の代表的神学者である。カトリック教会と聖公会では聖人、カトリック教会の教会博士33人のうち1人。イタリア語ではトンマーゾ・ダクイーノ(Tommaso d'Aquino)とも表記される。トマスの最大の業績は、キリスト教思想とアリストテレスを中心とした哲学を統合した総合的な体系を構築したことである』。

トマス・アクィナスの御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「創価の元」と伝えられました。支配層・八咫烏の胴元工作組織の創価学会は、宗教団体の創価学会が設立される前から存在しており、天皇を中心に一般大衆を支配するため工作組織です。日本に限らず世界の支配層の工作組織としての役割です。シエナのカタリナの経歴はwikiにあります。

『シエナのカタリナまたはシエナのカテリーナ(Santa Caterina da Siena, 1347年-1380年)は、ドミニコ会第三会の在俗修道女であり、イタリア文学とカトリック教会に多大な影響を与えた神秘家、活動家、作家。1461年に列聖され、教会博士でもある。カテリーナの神学はキリスト教神秘主義だと評されており、彼女自身の又は他人の霊的生活にとっての実用的な目標に向けて採用されたものだった。

彼女は中世スコラ哲学の言語を使って、経験的神秘主義を詳述した。主に神との霊的融合を成し遂げることに興味を抱いて、カテリーナは極端な断食と禁欲主義を実践し、最終的には聖餐(で与えられるパンと葡萄酒)だけで毎日生活するほどだった』。ドミニコ会の象徴的なものが「清貧」です。本来ならば自分を光で満たすことが重要ですが、ドミニコ会では、それと反対の清貧であることを重んじています。

これは、純粋な暗闇にする役目があったと感じます。シエナのカタリナの御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「火の人」と伝えられました。光の火は、女性性の光だと捉えていますが、シエナのカタリナの場合は、水と分離された闇の火の役割の可能性を感じます。次に、ドミニコ会の現・経営層の調査とワークに移りました。

ドミニコ会の経営層として、パブロ・カルロス・シクーリー(Pablo Carlos SICOULY/修道会マスター牧師・Vicar of the Master of the Order)とベンジャミン・アール(Benjamin EARL/検事総長・Procurator General)をピックアップしました。パブロ・カルロス・シクーリーの経歴は公式サイトに記載されています。

『修道会のマスターであるブルーノ・カドール神父は、パブロ・カルロス・シクーリー神父を知的生活のための彼のソシウスに任命しました。彼はアルゼンチンのセントオーガスティン管区の息子であり、任期を終えたばかりのマイケル・マスカリ神父の後任です。パブロ神父は1954年にブエノスアイレス市で生まれました。

サンタ・マリア・デ・ブエノスアイレス・カトリック大学で法律を学んだ後、1979年にマル・デル・プラタの管区の修道会に入学しました。彼は1980年に最初の職業に就き、1983年に厳粛な職業に就き、1986年に聖職者への叙階を受けました。彼はブエノスアイレスのアルゼンチン州研究センターで哲学と神学を学び、北の聖トマス・アクィナス大学と提携しました。

彼は大学の哲学教授であり、ドイツのフランクフルト・マインにあるザンクト・ゲオルゲン学部の神学博士号です。彼は1992年から1996年と2000年から2007年まで彼の州の研究の摂政であり、2007年から2015年まで以前の州の研究の摂政でした。この期間中、彼は北のセントトーマスアクィナス大学の理事会の会長および大学長を務めました。

彼は、アルゼンチン州の研究センターとアルゼンチン・カトリック大学(ブエノスアイレス)の神学部で、基本神学と教義神学の教授でした。2015年からは、CIDALC(ラテンアメリカ・カリブ海地域ドミニコ会)の研究推進者を務め、近年では、ヒスパニア州サラマンカのサン・エステバン神学部と協力して、この地域の修道士のための補完研究プログラムに参加しました』。

検事総長のベンジャミン・アールの経歴はwikiに記されています。『ベンジャミン・アール、O.P.は、英国のカトリック司祭、ドミニコ会の修道士、および教会の弁護士です。彼は、ドミニコ会の通称で知られる800年の歴史を持つ托鉢修道会である説教者団の検事総長です。[教育とキャリア]アールはイギリスのカンタベリーで生まれ育ちました。

彼はオックスフォード大学のセントジョンズカレッジで数学を学び、その後計算の修士号を取得した後、1997年にオックスフォードに英語の母屋があるドミニコ会に初心者として入会しました。初心者として、アールは叙階のために哲学と神学を学び、その後、ローマのサンタサビーナのドミニコ会修道院に移り、教会法の学位を取得し、修道会の検事総長と一緒に働きました。

2006年、アールはオックスフォードに戻り、ブラックフライアーズ・ホール(イギリスのドミニコ会の母院)でバーサールとして、また教会法の講師を務め、後にイングランド、スコットランド、ウェールズの植民地のバーサールとして、その間、イギリスのドミニコ会やより広いイングランドのカトリックコミュニティで高い評価を得ている説教者となりました。

2012年、アールはダラムの聖カスバート教会の新しいドミニコ会の家の教区司祭および司祭として召され、ダラム大学のカトリック牧師およびカトリック協会の牧師にもなりました。さらに、彼はイングランドのドミニコ会の典礼および経済委員会に奉仕し、ヘクサムとニューカッスルの教区裁判所の裁判官を務めました。

2016年以降、アールは、説教者修道会のマスターであるブルーノ・カドレの要請により、ローマのサンタ・サビーナで修道会の検事総長を務め、教会法の仕事と並行して修道会の説教の鍵を握り続けています』。キリスト教カトリックの修道会ドミニコ会は、古くから威厳と権威を修する支配層の役割を担ってきました。

ドミニコ会の修道会マスター牧師のパブロ・カルロス・シクーリー、検事総長のベンジャミン・アール、ローマ本部所在地(サンタ・サビーナ聖堂 Piazza Pietro d’Illiria, 100153 Rome | Italy)に闇の解除・統合を意図して各々に光を降ろすと「ペド」「ペド。重い。絶対支配」「いいです」と伝えられました。ドミニコ会本部の経営層は、松取りの闇が暗示される重たい大きな闇を隠した支配の役割のようです。

【関連記事】
○原爆工作に絡む八咫烏工作員が浮かぶ広島で被爆したイエズス会神父のペドロ・アルペとフーゴ・ラッサール
○英国 アヌンナキ(2) 〜巡礼の旅(388)〜
○東京 イエズス会が開設した日本初のカトリック系大学の上智大学 〜巡礼の旅(707)〜
posted by 地球の子 at 18:28| イタリア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする